静寂とインクの香りに包まれて
パンテオンやナヴォーナ広場といえば、いわずと知れたローマの名所。ところが一歩入った通りは、メインストリートの喧騒が嘘のような、落ち着いたエリアです。そこにあるのが『アンティーカ・カルトテクニカ(Antica Cartotecnica)』。国内外のステーショナリー・ファンに愛されている老舗文房具店です。
扉を開けた瞬間、ふわりと鼻をくすぐるのはインクの香りです。次に迎えてくれるのは、使い込まれた木製のカウンター。古き良き時代を閉じ込めたような、穏やかな空気に満ちています。

受け継がれる情熱
創業を1930年代にさかのぼるこの店で、3代目店主のアレッサンドロ・ビッリさんに話を伺いました。
「開業当時は文房具店のほかに卸売用の倉庫も併設されていて、そこで私の祖母エリーザは従業員として働いていました。働き始めて数年後、オーナーが国外移住することになり、彼女が店を引き継ぐことにしたのです」
アレッサンドロさんは「祖母は文房具への深い愛情と強いこだわりを持っていました」と振り返ります。
やがて戦後1950年代に筆記具の販売に特化したことで、店の評判はさらに高まりました。
扱う品の選択と豊富な品揃えで、たちまち美術家やプロのデザイナーの顧客を獲得。さらにローマという土地柄から、著名人にも贔屓にされるようになりました。イタリアを代表する俳優・劇作家のエドゥアルド・デ・フィリッポはインク壺やペン先を、歌手・俳優レナート・ラッシェルは高級万年筆やレターセットを好んで買い求めたとのこと。当時まだ幼かったアレッサンドロさんですが、ラッシェルの温厚で親しみやすい人柄は記憶に残っているといいます。


パッケージが映す時代の顔
店内の什器のほとんどは祖母エリーザさんの時代のものです。そこに並べられた、ヴィンティッジ商品を見せてもらいます。
一般の文房具店では出会えない万年筆、ガラス瓶入りインク、ペン先、鉛筆、消しゴム、さらにはタイプライターといったものたちからは、それらが生まれた時代が見えてきます。
好例は、1920年にミラノで創業したプレスビテロ社の万年筆用ペン先のパッケージです。そこに描かれたイラストレーションは、カンパリやピレッリなどの商業ポスターも手掛けた著名グラフィックデザイナー、マルチェロ・ドゥドヴィチによるものです。男性の赤い帽子に立つ大きなペン先は、勇敢な山岳兵(アルピーニ)の羽根付き制帽を多くのイタリア人に連想させます。
その商品名である「Pennino Nazionale(国産のペン先)」も時代を象徴しています。というのは、イタリアでは1922年のムッソリーニ政権成立後、国家の威信を回復しようとする気運が高まり、さまざまな分野の商品に「Nazionale(国民的)」という言葉が用いられたのです。プレスビテロ社のペン先も、そうした潮流のなかで生まれたと考えられます。



文房具に宿るイタリアの記憶
アレッサンドロさんは、愉快なエピソードも披露してくれました。「ある日、ひとりのアメリカ人観光客が店に入ってきました。そして『バーボンを頼むよ』と言ったのです。酒に酔っていた彼は、棚に並んだ大きなインク瓶をお酒と間違えてしまったのです」
そうした話を聞いているうちに、万年筆を携えた顧客が来店しました。店は修理のほか、祖父母の代が愛用していた万年筆のペン先が見つからなかったり、合うインクがないといった人々の駆け込み寺的存在でもあるのです。



アレッサンドロさんは祖母から受け継いだ情熱を胸に、今日も木製カウンターの後ろに立ち続けています。
古い什器に囲まれながら、いにしえの商店に思いを馳せ、文房具を通じてイタリア史の断章を知り、先代が遺したものを慈しむイタリア人の姿を垣間見る。それこそ、あと数年で創業1世紀を迎える文房具店を訪れる楽しみなのです。


INFORMATION:
アンティーカ・カルトテクニカ Antica Cartotecnica
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