イタリアを代表する調味料のひとつ「バルサミコ酢 aceto balsamico」。いまや日本のスーパーマーケットにもたくさん並ぶようになりました。でも、どれを選べば良いのか迷っている人、せっかく買っても今ひとつ使い方がわからない人は多いようです。
イタリアに暮らす庶民派代表の私も、普段はお手頃価格のバルサミコ酢を工夫して使っています。知り合いのシニョーラから教えてもらった「酸味が強すぎるときは、熱を加えると和らぐわよ。だから、肉を焼いた後のフライパンに入れて煮詰めれば、バルサミコ酢が美味しいソースに変身するの」「ドレッシングとして使いたいときは、ハチミツを少し加えてごらんなさい」といったことを実践してきました。
芳醇な香りに魅了されてしまうバルサミコ酢ですが、そもそも普通のワインビネガーと何が違うの? と素朴な疑問も湧いてきます。今回は、皆さんと同じように抱いてきたさまざまな疑問を解決すべく、バルサミコ酢造りの本場を訪ねました。
まさにイタリア版の桐ダンス!
バルサミコ酢は、古くからイタリア北東部のモデナ県とレッジョ-エミリア県で造られてきました。そのうち「モデナのバルサミコ酢」として売られている商品を大別し、わかりやすいように番号を付けると、以下のようになります。
《名称/粘度/一般的な風味の順》
1. アチェート・バルサミコ・トラディツィオナーレ・ディ・モデナ DOP /トロトロ/深い甘味 酸味は穏やか
2. アチェート・バルサミコ・ディ・モデナ IGP /サラサラ〜トロトロ/生産者により甘味と酸味の際立ちが異なる
3. 狭義のアチェート・バルサミコ (IGP指定外) /サラサラ/比較的酸味が強め
4.グラッサ/クレーマ (バルサミコ風)/トロトロ/甘味を強調したもの
1つめのトラディツィオナーレtradizionaleとは、伝統的製法を意味します。イタリアでは高級食料品店での販売が主流です。
モデナ郊外にある「アチェタイア ジュスティAcetaia Giusti」も、トラディツィオナーレを手掛けている老舗醸造所のひとつで、ミュージアムも併設しています。
*ショップはミュージアム敷地内のほか、モデナ旧市街、ミラノ、そしてボローニャにもあります。
まずは、バルサミコ酢造りの起源から。古代ローマ人はそれを調味料として使用するだけでなく、病気の治療薬にも用いていました。balsamicoの語源は「香り」。すなわち「香り高いお酢」という意味があります。モデナ一帯で酢造りが盛んになったのは、気温・湿度ともに高い夏と、厳しい寒さの冬という気候が醸造に適していたからです。
中世になると、酢造りは貴族や富裕な家庭の趣味となりました。のちに一般家庭でも手がけられるようになりますが、クリスマスなどの贈り物用でした。また、子どもの誕生を機に造り始め、彼らが結婚する際に祝いの品とする家もありました。その昔、日本では女の子が生まれると桐を植えて、結婚が決まるとその桐でたんすを作り、嫁入り道具としていたことを想起させます。こうしたことからも、バルサミコ酢が貴重な調味料であったことがうかがえます。
今回私が訪問したジュスティ家は、17世紀初頭からモデナ旧市街でハムなどの製造を生業としつつ、傍らでバルサミコ酢造りを始めました。ガイド役を務める醸造所のマッテオさんは、こう説明します。
「後年、酢に軸足を移していった背景には、創業者ジュゼッペ・ジュスティの郷土産品に対する熱い想いがありました」
1861年のイタリア国家統一後は、国内外の博覧会に果敢に出展。モデナとバルサミコ酢の知名度向上に貢献しました。1929年には、イタリア王であるサヴォイア家御用達のバルサミコ酢となりました。今日までボトルに輝く、赤地の盾と十字は同家の紋章に由来します。
根気の結晶「トラディツィオナーレ」
次に、前述の伝統的製法「トラディツィオナーレ」について、マッテオさんに解説してもらいましょう。
「バルサミコ酢が、なぜ貴重な物として扱われてきたか? それはトラディツィオナーレの製造工程を知れば、すぐに理解していただけるでしょう」
案内されたのは、樽が所狭しと並ぶ醸造蔵でした。
「原料は2種の地元産ブドウ(ランブルスコ、トレッビアーノ)のみ。他の材料は一切加えません。果実を圧搾してできた汁を直火で半日煮詰めると褐色へと変化し、モストと呼ばれる液体になります」
次にモストを樽に移して熟成します。桑・桜・栗そしてオークなど、材質と大きさの異なる5つの樽を1セットとして使用します。樽すべてにモストを入れて熟成を進行させると、一部が蒸発するとともに濃厚になってゆきます。
その後に待っている「樽の中身の移し替え工程」こそ、バルサミコ酢造りで最も特徴的なものです。5つの樽のうち、仮に最小のものを1番とすると、ワンサイズ大きい2番の樽の中身を1番に移し、これまたひと回り大きい3番の樽を2番に移す……といった要領で、毎年大きい樽から小さい樽へと中身を移動して熟成させてゆくのです。
翌年には、また新しいモストを最も大きい樽に加えます。この作業を何年も繰り返すと、樽のエキスや香りが液体にゆっくりと移ります。最終的に一番小さな樽に残るのは、その容量の10%程度。これぞ「トラディツィオナーレ」の最終製品となります。これほどまでに根気と手間を要するとは! 珍重されてきた理由がわかります。
さらに説明すれば、モデナのトラディツィオナーレには、2種があります。モデナのバルサミコ保護組合が定める厳格な規定によって、最低12年熟成させたものを「トラディツィオナーレ」、最低25年熟成させたものは「トラディツィオナーレ・エキストラヴェッキオ」と呼びます。いずれも欧州連合が定めるDOP(原産地名称保護制度)認証を受けています。
ジュスティ醸造所の100ml入り瓶を日本円にすると、12年物は約1万1千円、25年物は約1万8千円(1ユーロ=144円で換算)といったところ。「黒い黄金」と呼ばれるのも納得がいきます。
伝統 ✕ 創作の「IGP」
冒頭のように今日、市場にはバルサミコ酢と称するさまざまな商品が流通しています。詳説すると、3の狭義のアチェートバルサミコ(IGP指定外)は、比較的サラリとした味わいのタイプ。熟成期間を短くし、普及価格で行き渡ることを目指したものです。4のグラッサ/クレーマは、普通のワインビネガーに多量のカラメル加えて甘みを出したり、着色料を使用したものが大半です。
これらはトラディツィオナーレよりも明らかに手頃な価格で製造・販売できます。そのため、バルサミコ酢の知名度を上げる一方で、製造法の定義を曖昧にしてしまったのも事実でした。
そこでモデナの保護組合は、普及品においても高品質を維持できる製造法の規定づくりを模索。2009年に達成しました。それが冒頭の2の、IGP(保護指定地域表示)指定バルサミコ酢です。
IGPのバルサミコ酢は、一定の製造基準こそありますが、トラディツィオナーレに比べて、
・原料のブドウ品種が多い
・モストに10年以上熟成したワインビネガーを添加できる
・熟成期間も数年と短く、樽を移す必要がない
など、各醸造所は創作性に富んだ製品を送り出せます。
参考までに、ラベルにIGPと記載された商品はスーパーマーケットでも売られていますが、一般的に老舗が手がけたものは、ブドウの甘味と角のない酸味のバランスが絶妙です。
「100年物」のお味は?
ミュージアムと醸造蔵を巡ったあとは、マッテオさんからテイスティング法を習います。スプーンの上に黒褐色のバルサミコ酢が注がれました。
「口に入れたら、スプーンごとしっかり口を閉じる。そしてジェラートを食べるときのようにスプーンをくるりと回転させ、舌になすりつけます」
サラダにかける以外の使い方も伝授してくれました。「たとえば12年物のトラディツィオナーレは、少し脂分の多いステーキや熟成チーズなどに。25年物は、かぼちゃのリゾットや詰め物パスタ、イチゴやジェラートにかけてみてください」。さまざまな料理と絶妙なマリアージュを楽しめるのは、芳醇な甘さと絶妙な酸味で素材を引き立てる、バルサミコ酢ならではの魅力です。
最後にマッテオさんは「これは、とっておきです」と、ひとつの瓶を取り出しました。なんと100年以上熟成させたものでした。日本でいえば、少なくとも大正もしくは明治時代から熟成されてきたことになります。
黒光りする滴を静かに口に含むと、鼻先に芳醇な香りが漂ったあと、自然な甘みと柔らかな酸味が溶けて舌に伝わってきました。郷土の味を絶やさぬよう幾代もの作り手が熟成させた、慈しみ深い風味が広がります。
バルサミコ酢の製法を極めて早く明文化したといわれるジュゼッペ・ジュスティは、「最高峰といえるのは、最低100年の熟成を要する」と書き残しています。私の喉を、世紀の重みが通ってゆきました。
このリポートが、あなたのバルサミコ酢選びの一助になり、キッチンで使いきれずに眠ってしまっていた一瓶が再び活かされるきっかけになれば幸いです。