2006年、『プラダを着た悪魔』はファッション業界の華やかさと厳しさをテンポよく描き、世界的なヒットとなった。ジャーナリスト志望のファッションとは無縁のアンディが、一流ファッション誌「Runway」で完璧主義の上司ミランダに鍛えられながら成長していく姿は、多くの観客の共感を呼んだ。
あれから20年。アルゴリズムが美意識を決め、AIが編集部に入り込み、サステナブルとコンプライアンスが業界の空気を塗り替えた今、続編として物語が帰ってきた!しかも『プラダを着た悪魔2』が選んだクライマックスの舞台は、パリではなくミラノ。前作の延長線上にあるファッションの第二の都という理由だけなのだろうか?それとも、そこにはまだ語られていない背景が潜んでいるのだろうか。
2000年代のミラノとパリのファッション業界のリアル
ワカペディアチームは10代でミラノのファッション業界に足を踏み入れ、20代でパリを拠点にしていた。その当時「ファッションのバイブル」と呼ばれたBtoBメディア企業に勤め、アンディの様に華やかな表舞台の裏で渦巻く酸いも甘いも、業界の現実を余すことなく目にしてきた。
ファッションウィーク中は、世界中から集まったバイヤーがショーからショールームへと駆け回り、夜になれば予算という概念が消え去ったかのようなパーティーが毎晩のように開かれ、業界人の社交の場となった。まるで『プラダを着た悪魔』と『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が混ざり合ったような、タフでアバンギャルドで自由奔放な世界だった。
現代社会がファッションをどう変えたのか?
2000年代のミラノとパリが情熱や洗練された創造性で動いていた時代だとすれば、2020年代のファッション業界はまるで別の惑星だ。アルゴリズム、効率、サステナブル、そしてコンプライアンスが美意識を規定するようになった。
美意識はSNSの数字に置き換えられ、TikTokの15秒がトレンドを生み、Instagramのフィードがブランド価値を左右する。かつてRunwayのような雑誌がファッションの司令塔だった時代は終わり、クリック率やエンゲージメントが美の基準となった。
もちろん炎上は絶対NG !コンプライアンスに目を光らせ、ネガティブなワードはもちろん禁止。必要以上に過敏になっている。この調子で行けば、そのうち、「白」や「黒」も、「女性」、「男性」といったワードもNGワードになる日が来るかも?!

毒舌で知られるミランダでさえ、会議中にアシスタントに何度も制止され、 「過激」な表現をマイルドに言い直す羽目になる。 ファッションは「正しさ」と引き換えにクリエイティブを失い、 尖らせることをやめてしまったようにも見える。
コンプライアンスは、作品の中だけでなくスクリーンの外でも常に存在感を放つ。『プラダを着た悪魔2』で象徴的なのは、ミランダが自分でコートをかけるシーンだ。前作ではアシスタントのデスクに投げ捨てていたあのミランダが、そんな仕草を見せる日が来るとは思わなかった。今の時代、上司のハラスメントは即HR案件。ゴシップが大好物なコミュニティの狭いファッション業界では、ひとつのスキャンダルが瞬時に拡散し、自社だけでなくスポンサー企業のイメージまで大きく傷つけてしまう。
かつては、アシスタントであろうがエディターであろうが、若い女性であれば誰でも社長のお使い係だった。ランチの買い出しはもちろん、決まった銘柄のタバコやウィスキーを毎日のように買いに走らされる。時には渡されたカードを握りしめ、引ったくりが多発するパリのATMで震えながら、現金を引き落とすこともあったのだから。(ちなみに、ワカペディアもこの「暴露」をコンプライアンスに怯えながら書いている)そんな、昭和の根性論と混沌が入り混じった時代が、確かに存在していた。

Vogue編集長がメトロ乗車?!コロナが書き換えたファッションの世界
コロナ禍は、ファッションの現場を一気に書き換えた。ショーは次々と中止され、コレクションはデジタルプレゼンテーションへ移行。大手百貨店やセレクトショップのバイヤーがショールームで商品を手に取りながら買い付けをしていた、あの当たり前の光景は消え、代わりにバーチャルショールームが新しい標準となった。
パンデミックが落ち着いた現在はショーもショールームもリアルに戻っているものの、コロナ期に生まれた効率化の圧力だけは消えていない。
飛行機の移動はシャンパンなどでるよしもないエコノミー、ファッションウィーク中の移動はパリのスリも多く、時に鼻をつくようなアンモニア臭が非常に香ばしいメトロという究極のバジェットカット。あのVogue編集長ですらメトロで移動している姿が業界内で噂になったほどだ。(もちろんトレードマークの巨大なサングラスで完全武装のため本人だったのかは確証がないままだ。)
なぜ舞台はパリではなくミラノなのか?
ところで、今回の映画では、物語の中心がパリではなくミラノのファッションウィークに置かれている。「前作がパリだったから、今度はミラノ」という単純な理由に見えるかもしれない。だが、これは近年のミラノの傾向を考えると偶然ではないように思える。
現在、ミラノは世界最大級のショールーム都市であり、ラグジュアリー製造の中心地として存在感を急速に高めている。主要メゾンの多くがイタリアの職人技術に依存し、グッチ、アルマーニ、フェンディ、ボッテガ・ヴェネタ、プラダ、ドルチェ&ガッバーナなど、世界的ブランドのものづくりの土台はミラノにある。映画に実在のイタリア人デザイナーが登場するのも、ミラノが今のファッションの中心地であることを象徴している。
さらに近年は、海外クリエイターや資産家がミラノに拠点を移す動きも加速している。税制の後押しや、街全体のクリエイティブ産業の活性化が背景にあり、こうした流れがミラノのファッションシーンにさらなる厚みを与えている。(詳しくはこちらの記事を)
こうした勢いを取り戻しつつあるミラノの魅力を映すように、映画のロケ地もミラネーゼなら誰もが空気で分かる場所が厳選されている。 ミランダたちが滞在したのは、ブレラ地区の17世紀建築を改装した 5つ星ホテルPalazzo Parigi。地元の人々が「ここは本物」と認める格式高いホテルだ。Runwayのショーが行われたブレラ美術アカデミーも同じだ。デザインウィークでも核となるエリアで、創造性と伝統が同じ場所に息づく、ミラノ文化の心臓部。そして、ミラノの喧騒がふっと途切れるコモ湖の邸宅。ミラネーゼにとってコモ湖は、ただの避暑地ではない。セレブや貴族の末裔が別荘を構え、街の人々が「いつかは」と憧れる、ステータスの象徴だ。 映画に登場する湖上のVilla Balbianoは、その象徴の極み。16世紀から続く湖最大級のプライベート邸宅で、観光では触れられないミラノの深層を映画に与えている。
正直、ここまでミラノの本気を詰め込んでくると、政府と映画が手を組んだイタリア観光キャンペーンなのかと疑いたくなるほど。ふと、ヴァーチャルインフルエンサー「ヴィーナス(Venere)」がコモ湖で優雅にポーズを決めるあの既視感が頭をよぎる。

まさにミラノは「ファッションの商業化と伝統の交差点」であり、同時に「美と権力の象徴」とも言える場所だ。続編がミラノを舞台に選んだのは、単なる舞台変更ではなく、今のファッション業界の重心がどこにあるかを示す必然の選択だと言える。
なぜ『最後の晩餐』でなければならなかったのか?
そんな勢いのあるミラノの中でも、映画がクライマックスとして選んだのは、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。ミラノという都市が持つ「創造性」と「歴史性」の両方を象徴する、これ以上ない場所だ。

『最後の晩餐』は、単なる宗教画ではない。人間の選択、揺らぎ、忠誠、裏切りという普遍的なテーマを描いた作品だ。教会ごと世界遺産に登録され、劣化を防ぐために、湿度も温度も厳密に管理されているこのマスターピースは、イタリア人にとって、文化的な聖域なのだ。もちろん、アートを学んできたワカペディアチームにとっても、そんな空間でシャンパンを開けてディナーを楽しむという発想は、あまりに現実離れしていて思わず笑ってしまうほどだった。
当然、エンタメ映画の撮影許可が下りるはずもなく、劇中の 空間はレプリカで再現された幻の広間だ。その聖域を貸し切るという発想自体が、SNS映えや話題性を重視する現代のショービジネスを象徴している。
しかし、ここで重要なのは、第一作でセリュリアンのセーターを通して、ファッションなんて無意味で表面的だと考えていたアンディが無自覚に身につけている服にも、デザイナーの創造から大量生産に至るまでの長い文化の連鎖があることを示したように、ミランダは「ものが持つ意味」や「文化の背景」を誰よりも理解しているという点だ。そして、その文化の連鎖の出発点には、必ず本物の創造性があることも、彼女はよく知っている。
彼女がこの場所をクライマックスのガラディナーに選んだのは、Runwayの重要スポンサーを満足させるためだけではない。アルゴリズムが美意識を決め、効率が創造性を押し流し、文化が消費物へと変わっていく現代への痛烈な皮肉が込められている。
変わったのは世界のほう
第一作目であれだけ強烈だったミランダだが、そこには厳しい世界を生き抜いた者だけが見る景色や、他の人では再現できない独創性やセンスがあった。一方で続編のミランダは当時の片鱗は垣間見えるものの、マイルドになり、どこか小さく、裸の女王様のよう。しかし、彼女が弱くなったわけではないのだ。変わったのは、彼女を取り巻く世界のほうだ。この時代において、ミランダが『最後の晩餐』を選んだことは、「美の本質を忘れるな」というメッセージでもあるのかもしれない。
そしてそのメッセージは、ファッション業界だけに向けられたものではない。私たちの働き方も、価値観も、人間関係も、20年前とはまったく違う場所に立っている。世界が変わり、強さや美しさの定義そのものが変わったのだ。だからこそ、急速に流入してくる情報や、AIの作り上げた「完璧」な美を前に、私たちは物事の本質とは何かを、もう一度問い直してみたい。