トスカーナ州南端、ラツィオ州との境に位置するモンテ・アルジェンターリオは、ティレニア海に突き出た岬です。山とエメラルド色の海に恵まれていることから、長年セレブリティのリゾート地としても知られてきました。今回は、その深い魅力に迫ります。
トスカーナにあったスペイン領
モンテ・アルジェンターリオの面積は、60.4平方キロメートル。東京都大田区(60.7平方キロメートル)とほぼ同じです。大昔は島でしたが、海流によって次第に砂州が形成されて本土と結ばれました。新石器時代には、早くも一帯の洞窟に人々が住み始めたといわれています。
地理的経緯と同様、モンテ・アルジェンターリオは政治的にも複雑な歩みを辿りました。なんとここは“スペイン”だったのです。
中世のイタリア半島中部で、シエナ共和国はフランスと、フィレンツェ共和国はスペインと同盟を結んでいました。そうしたなかモンテ・アルジェンターリオは、1410年からシエナの支配下にありました。半島の南北を結ぶ交易ルートの中継地として、この地は重要な拠点でした。
ところが15世紀末から16世紀中頃、フランスとスペインが半島の支配権をめぐって展開したイタリア戦争が始まると、モンテ・アルジェンターリオの主要港であるポルト・エルコレでは、スペインとの戦闘が繰り広げられました。その様子は、ジョルジョ・ヴァザーリがフィレンツェのヴェッキオ宮殿の五百人広間に描いた「ポルト・エルコレの攻略」で窺い知ることができます。
そして1555年、フィレンツェ・メディチ家のコジモ1世は、スペインと共にシエナ陥落に成功しました。これを機に、1577年からモンテ・アルジェンターリオはスペインの領有地となります。ポルト・エルコレには総督邸が置かれ、支配は1707年まで続きました。
今日、モンテアルジェンターリオの高台に登ると、大海原とともに、いくつもの要塞が目に入ります。いかに当時の人々にとって戦略的拠点として大切であったかが偲ばれます。
鬼才カラヴァッジョ最期の地
モンテ・アルジェンターリオを語るのに、忘れてはいけない人物といえば、イタリア・バロック絵画の巨匠カラヴァッジョ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ)です。
ポルト・エルコレ旧市街から海を見下ろし、視線を右に向けると、本土と繋がる砂州のひとつが視界に入ります。フェニリアと名付けられた穏やかな海岸線です。
社会性に乏しく、気性の激しさから各地で揉め事や殺人を起こしては投獄・脱獄を繰り返していたカラヴァッジョの最期に関しては、「船上でマラリアに罹患し客死した」「マルタ島逃亡時代のトラブルが引き金となって暗殺された」など諸説あります。しかし、モンテ・アルジェンターリオでは、古くから以下の話が伝えられてきました:
……1610年、カラヴァッジョはローマ教皇から恩赦を受けるべく、船でナポリからローマへと向かっていた。交渉の窓口役となってくれた枢機卿への献上品として、自身の作品3点を持参していた。しかし、ある寄港地で再び投獄される憂き目に。彼は船内に残した絵を奪還すべく脱出するが、上船したところで海に転落してしまった。
カラヴァッジョは小船に乗り換えて、前述のフェニリアの海岸に辿り着く。瀕死の状態だった彼は、ポルト・エルコレの修道会療養所で手当を受けるが、数日後息絶えた。1610年7月18日のことだった。のちにイタリアを代表することになる画家とは知らぬ村民たちは、亡骸を地元の共同墓地に葬った……というものです。
伝説がふたたび脚光を浴びることになったのは、没後400年である2010年のことでした。
研究チームが共同墓地から発掘した多くの遺骨をDNA鑑定したところ、なかに高濃度の鉛を含んだ人骨がありました。それは高い確率でカラヴァッジョの遺骨であると結論づけられたのです。理由は彼が生きた時代の画材に大量の鉛が含まれており、鉛中毒で死亡したという説もあったためです。さらに別の既往症の形跡と一致することも決め手となりました。
そして2014年、市はカラヴァッジョのものとされる遺骨5本を石棺に収めました。以前、私がモンテ・アルジェンターリオを訪れたとき、その石棺は、何げない住宅地に囲まれた公園に安置されていました。観光客でも足を運びやすい港の近くに、という配慮による立地だったそうです。
ところがその後、石棺は別の場所に移設されたといいます。そこで、今回の執筆を機会に、ふたたび訪ねてみることにしました。奇しくもちょうどカラヴァッジョの命日にあたる7月18日のことです。
新たな場所は、港から徒歩で約15分、イタリアにおける一般的な佇まいの市営墓地でした。「カラヴァッジョの墓」があることを示すのは、墓地の外壁に貼られたそっけないプレートのみ。これから分譲されると思われる更地の区画の片隅に、月桂樹の生垣に囲まれた一画を発見しました。「もしや?」と近づいてみると、以前見た石棺が移設されていました。命日ゆえ、もしや地元の人々が花束を手向けているのでは……と想像していましたが、それもありませんでした。
移設の背景には、前市長と現市長による文化観光政策への確執があったといわれます。いわば政争に巻き込まれるかたちで、観光客がアクセスしにくい場所へと移されたのです。
しばらく佇んでいましたが、周囲には家族の墓を参拝するお年寄りがちらほら通るのみで、カラヴァッジョの墓を訪れる人は、私以外にいませんでした。青く澄み切った夏の華やかな空とは対照的にひっそりと置かれた石棺は、光と闇が交錯した鬼才画家の人生のごとく私の目に映りました。
ふと石棺の上に目をやると、いくつもの小石が並んでいることに気づきました。ここを訪れた誰かが、弔いの意味を込めて置いたのかもしれません。私も倣って、月桂樹の下にあった小石を乗せて、静かに手を合わせました。
潟(ラグーン)がもたらした地元珍味
モンテ・アルジェンターリオの珍味も、その地形や歴史とたぶんに関係があります。
冒頭で触れたとおり、島だったモンテ・アルジェンターリオは、長い時を経て2本の砂州で本土と繋がり、外海から隔てられた潟(ラグーン)が生まれました。
15世紀になると、シエナ人は本土側の町名をとったオルベテッロ潟に、粉挽き小屋を建てます。潟に流れ込む潮の干満で石臼を回転させるものでした。続くスペイン統治下では、小屋に羽根が付加され、海流と風力の双方を利用できるようになりました。計9基の風車によって製粉能力は格段に増えました。
さらに1842年、トスカーナ大公レオポルド2世は、オルベテッロとモンテ・アルジェンターリオを繋ぐ土手の建設に着手。往来が容易くなると同時に、潟は二分されました。
徒歩でも車でも渡れる土手の長さは約1km。両側に潟を眺めつつ、直線路をひた走るのは視覚的にも爽快です。傍には、1基のみ保存されている風車小屋も目にできます。
今も潟には、スズキ、タイ、ウナギなど豊富な魚が生息しています。そうしたなか、モンテ・アルジェンターリオの代表的産品といえば、「ボッタルガ bottarga」です。ボラの卵巣を塩漬けにしてから乾燥させたカラスミです。
実はこれも、スペイン統治下に歴史をさかのぼります。スペイン人の船乗りたちは、乾燥・燻製させた魚を旅に携行していました。その技術を地元の人々が学んだのが、オルベテッロのボッタルガの起源なのです。
潟の近くにある漁協直売店では、鮮魚と並び、現地加工されたボッタルガが販売されています。我が家の夏といえば、海を楽しんだあと、ここでボッタルガを購入するのが定番です。「今夜は薄くスライスしてねっとりとした旨味を味わうか、それとも削ってパスタにかけようか……」と想像しただけで、思わず頬が緩みます。
それに合わせる地元産白ワイン「アンソニカ・コスタ・デッラルジェンターリオansonica costa dell’argentario」も買い忘れてはいけません。
フィレンツェやシエナから遠く離れていながら、それに比肩する複雑かつ多彩な歴史に彩られた小さな岬モンテ・アルジェンターリオ。それは、まさにトスカーナの隠された宝石といっても過言ではありません。
INFORMATION:
Pro Loco Monte Argentario www.prolocomonteargentario.it
I Pescatori di Orbetello https://ipescatoriorbetello.it