長靴半島の東側・アドリア海に面したリミニは、イタリア屈指のサマーリゾートである。しかし、もうひとつの顔がある。イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニの故郷だ。地元の空港にも、彼の名前が冠されている。
イタリアン・ネオレアリズムを象徴するフェリーニ作品に触れた人の多くは、「一度観ただけで理解するのは困難だ」と口にする。実は、私もそのひとりだ。彼の生まれ育った地に立てば、解釈の糸口が見つかるかもしれない。期待を胸にリミニへと向かった。
城内に置かれたミュージアム
まずは、その名も「フェリーニ・ミュージアム」を目指す。2021年8月に開館したばかりの施設は、旧市街にある2つの建物で構成されている。
ひとつは、15世紀にリミニ領主の居城だったシスモンド城内に置かれている。入口には幻想的な霧が立ち込めている。映画『フェリーニのアマルコルド(1937年)』に登場する豪華船レックス号が霧の中を通過する場面をイメージしたミスト装置だ。
館内は、撮影で使用したセットが作品ごとに再現されている。フェリーニの伴侶であり、『道』(1954年)でヒロインを演じたジュリエッタ・マシーナや、盟友マルチェッロ・マストロヤンニに捧げられたコーナーも続く。さらに小道具、衣装、彼が遺した手紙などを通じても、フェリーニの世界観に浸ることができる。
フェリーニの感性を磨いた映画館
ミュージアムの別館は、広場を挟んだフルゴール宮殿にある。こちらはフェリーニによるデッサンや絵コンテ、撮影現場の写真が収められているほか、貴重なフィルムがデジタルアーカイブされている。監督の活動をさまざまな側面から知ることができるファン垂涎の場だ。
同じ建物に現存する映画館「チネマ・フルゴール」にも物語がある。何を隠そう、幼きフェリーニがはじめて映画と出会った場所だ。5〜6歳だった彼は、1925年の無声映画『マチステの地獄征伐』に魅了されたという。さらに高校生になると、イラストレーションが得意だった彼は、支配人の依頼で、出演俳優たちの宣伝用似顔絵を手がけている。
郷土の名士に捧ぐウォールアート
館員たちは、ボルゴ・サンジュリアーノという街区の散策をすすめる。旧市街から橋をわたって10分ほどにあるその地域は、昔日には小さな漁村だったが、今日ではウォールアートが楽しめるという。
実際赴いて狭い石畳の路地に迷い込んだ途端、カラフルな外壁画に彩られた家々が現れた。そうした民家の一軒から出てきた夫婦が私に声をかけてくれた。
彼らによれば1980年、村祭りのために漁村の素朴な暮らしを描いたのが始まりだったという。フェリーニが世を去ると、今度はリミニの芸術家たちが彼の作品を題材にした絵を描くようになったのだとか。
親切な夫妻は、私が迷わないようにとウォールアートがある場所へと次々案内してくれた。彼らは「フェリーニ作品は、主にローマの撮影所内に巨大セットを組んだ、人口美の世界から生まれました。リミニで撮影されたことはありません」と説明したうえで、こう続けた。「しかし彼が故郷の思い出を作品に込めたのは真実でしょう。それゆえに私たちリミニ市民にとって、彼は誇りなのです」
「映像の魔術師」の世界観そのままに
旅の結びは、1908年創業の「グランドホテル・リミニ」に足を運ぶことに。若き日のフェリーニは、華やかに着飾った紳士淑女が出入りする、この壮麗な館を遠巻きで眺めていた。そうした幼少期の記憶のすべてを投影したのが『フェリーニのアマルコルド』(1973年)といわれる。たしかに施設内の美しい庭園や煌めくシャンデリアは、私が映像で目にしたフェリーニの世界そのものだった。
ホテルの眼前に広がる海岸を歩きながら、旅を振り返る。結論からいうと、夢と現実を往来するかのような、イタリアン・ネオレアリズム作品への解釈が深まったとは言えなかった。生誕地を一度訪ねたからといって、一瞬で霧が晴れるようにエニグマ(謎)が解けるはずもない。それだけに、理解するのではなく心で感じるための、澄んだ精神が必要なのだと感じた。
同時に、フェリーニ少年が目にした風景や空気に触れた一日は、今後作品を見るたびに、私に新しい発見を呼び起こしてくれるきっかけになったのは間違いない。そう考えながら歩く頭のなかでは、作曲家ニーノ・ロータによる『フェリーニのアマルコルド』のテーマが、寄せては返すアドリア海の波とともに繰り返されていた。