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「マルケ州の丘から古代小麦便り」林由紀子の土着的イタリア田舎暮らし日記

かごに盛られたパン

寝てもパン+パスタ、覚めてもパン+パスタ。
イタリアの食文化を支えているのは紛れもなく”小麦粉”なのは周知のとおりですね。
軟質小麦の栽培が盛んな中部イタリアでは、麺棒で広げる手打ちパスタが発達し、硬質小麦の栽培しやすい南イタリアでは、生地から手びねりするタイプのパスタが沢山生み出され・・・と地域性と深く結びついているイタリアの小麦栽培。

100年前に遡れば、どこの小麦栽培地域でも麦の植え付け、収穫、脱穀などの行事は農民の間でも最も待ち望まれていたお祭りであり、パンもパスタもお店で買うものではなく各家庭で作られるものでした。
それもそのはず、小麦の栽培地域には村ごとに無数の粉挽き小屋が存在し、自分たちの育てた麦を川の水力で回す石臼で挽いて小麦粉にしてもらっていたのです。いわゆるどこの家庭でも”マイ小麦粉”というのは当たり前だったのですね。現在のイタリアでは、麦の生産者でなければなかなか考えられない贅沢です。

小麦粉を挽くための石臼が設置された室内今でも水力で稼働している、マルケ州にある粉挽き用の石臼

パン焼きも然り。すべての家庭にパンを焼くための薪窯は無かったので、”窯焚き”の日には、村の共同薪窯に焼くだけになった生地を持ち込み、皆で列になって自分のパンを焼いてもらえるのを待っていたそう。2、3世代前の時代には普通だった風景が、現在では既に過去のものになりつつあります。

そんな歴史の中心にあったのはやはり”小麦粉”。主食の主人公が麦なのは昔と変わりませんが、現在の麦と昔の麦には大きな差があるのをご存じでしょうか。

古代小麦とは

現在イタリアで消費されている多くの小麦粉は、70年代の高度経済成長期に市場の需要により栽培されるようになったもので、”より多くの収穫ができ、熱に強く(近代の機械化された粉挽き機でも変質しにくい)グルテンが多く(加工食品に使いやすい)なるように交配、一部遺伝子操作されたもので、それまでの農学者のよる”作りやすい麦を見つけるために交配する”だけのものとは一線を引くものでした。麦そのものの本質は変わり、時代の中で”いかに経済活動に貢献できるか”を重視した、工業生産品としての小麦粉がもてはやされる時代が来たのです。

我が家の前の小さな農地も今年は古代小麦でした

それ以前の時代は、その土地特有の土着品種の麦を栽培するのが習わしでしたが、そういった昔から栽培されてきた麦たちを一般的に”古代小麦”と呼ぶ傾向が、ここ十数年の健康志向の風潮の中で生まれました。
古く栽培されてきた麦は丈の高いものが多く、さらに熱に弱く栄養分もより複雑でデリケートなため、スピードと量産を重視する現代の収穫、脱穀、製粉加工方法で処理されるには向きません。
昔ながらの石臼による粉挽きでこそ、元来麦の持つビタミンやミネラル、繊維質、そして何よりも風味が格段に違う小麦粉が生まれます。パン作りを生業にしている友人に言わせると、粉と水分を合わせ、水回しという作業をする段階ですでに、香り立つ粉とそうでない粉の歴然とした粉のクオリティの違いが歴然と分かれるのを感じ取った方も多くいるのではないでしょうか。

最も古い古代小麦と言われているファッロ•モノコッコ最も古い古代小麦と言われているファッロ•モノコッコ

人類が初めて栽培に挑戦した麦は、数十種類ある古代小麦の中でもファッロ・モノコッコ(FARRO MONOCOCCO 学名TRITICUM MONOCOCCUM)だと言われており、紀元前7500年までにも歴史は遡ると考えられています。
それから多くの土着品種の小麦が近代までずっと人間の生活に寄り添ってきたわけですが、これだけ長い歴史のあった小麦栽培が、ここ50~60年程の間だけで、経済状況や生活様式の変化により、栽培方法も消費方法もドラスティックに変化したのは言うまでもありません。
グルテンアレルギーなどの現代病が生まれた理由が、小麦をより安く簡単に大量に生産しようとした負の連鎖の結果であることは言うまでもありませんが、この風潮を変えて行こうと古代小麦を生産する農家が、近年とても増えて来ています。
そんな生産者のなかでも、農学者や穀物遺伝学者とともに古く新しい挑戦をする友人のお話をしてみたいと思います。

孤高の農哲学者ジルベルト

ジルベルトと奥さんのヴィオリータジルベルトと奥さんのヴィオリータ

マルケ州南部のトッレ・サン・パトリッツィオという小さな町で、農家を経営するジルベルトと奥さんのヴィオリータ。ジルベルトは両親や祖父母も長年農家を経営し、この土地に根を下ろして暮らしていた生粋の家系ですが、ここ5、6年農家の誇りをかけた大きな挑戦をしています。
それは多種の古代小麦とそれらと共存する豆類を実験的にミックスして沢山の組み合わせを生み、栽培するというもの。
これは世界的にも著名な穀物遺伝学者であるサルバトーレ・チェッカレッリさんの指導のもと、土地や田園をどのように活かしていくか、実験的な栽培を重ねてエコシステムの多様性を最大限に引き出す試みとも言えます。
多様な古代小麦をミックスするメリットは、その背丈の違いから麦の高さにバリエーションが生まれ、雑草が入り込む隙を自然な状態で防ぐことが出来る点で、豆類を一緒に混ぜて混然一体で植えることで、マメ科の植物が土に窒素を生み出し、それが穀物の成長を助けてくれます。

複数の古代小麦と豆類が渾然一体に生育するジルベルトの畑複数の古代小麦と豆類が渾然一体に生育するジルベルトの畑

様々なバリエーションで植えられた麦たちは、それぞれがせめぎあい、よりいい形で育とうと麦同士の静かなバトルを繰り広げ、それを一緒に植えられた豆科の植物が見守り助けます。化学肥料で甘やかされることなく育つ麦たちは、生命力が強く雑草にもはびこる余地を与えません。彼らと調和しながら育つ草たちだけが、黄金色の穂の隙間に見え隠れしています。植物たちのコミュニティは、誰が生き残り、誰が去るべきかを決め、強い種たちだけが次にやってくる種蒔きの季節の主役となれるのです。

このシステムは、言ってみれば野生の地に落ちた穀物の種が、そこに受けた生を生き抜く状態と似ています。もちろん従来のインテンシヴな除草剤や化学肥料頼みの農法から比べると、収穫量は半分にも及びません。しかしそこには生態の循環が生まれ、土は肥えて多くの微生物が生まれます。このような畑が何ヘクタールも連なる、ということは、土地や田園そのものが豊かに生きているということです。それはもちろん人間の生活の豊かさにも直結しています。
私はこの畑を見せていただいた時、わずかこの半世紀で酷使され瘦せてしまった土地たちが、取り返しがつかなくなる前に命を吹き返す素晴らしい農法だと思いました。

そんなことを言っても、収穫が減ってしまえば収入も減るだろう、そうすれば生活はどうするのか、と読者の皆さんは思われるでしょう。
この農法では、遺伝子操作された種を毎年いやいや購入したり、除草剤や化学肥料の散布も必要ないので、薬品を購入する必要がありません。そしてそれらを何度も散布するためのトラクターレンタル費用や、ガソリンの節約にもなります。
ジルベルトさんの話では、従来の農法に比べて、使用するガソリン代だけでも、年間で数千ユーロの節約になっていることが分かったとお話ししてくれました。
そして農家として自分が誇れる商品を作る、という誇りの問題でもあり、未来の子らにどのような農地を残していくかという環境問題でもある、と。
目の前の金銭に惑わされて、人間はここまで来てしまった。でもこれからは本質の時代だと思う、いや、そう思いたいね。と静かに語ってくれます。

この試みが今後うまくいくかどうかは不安ではないの?と私が訪ねると、こんな答えが返ってきました。

農業と生きていくことは田園の生物多様性を最大限に活かすことだ、と語るジルベルト農業と生きていくことは田園の生物多様性を最大限に活かすことだ、と語るジルベルト

僕は自分の事を孤高の農哲学者だと思っているんだ。
このくらいの歳になると、自分を育ててくれた親戚や小さいころから周りにいた人々が、少しずつ旅立ってゆく。農家なんて、昔は字も読めなくて地主にこきを使われ、下等な職業だと思われていたけれど、それは全く違う。彼らは字が読めなくても家畜の出産を管理したり、なんでも物を自分たちで作り、直せもした。古くから言い伝えられている農作に纏わることわざを、頭ではなく勘と経験で熟知して守っていた人たちだったよ。あんなに色々なことが出来た人間たちは今の時代にはいないだろう?
そしてとにかく、安全で健康的な食事をしていた。お金はなくても美味しい農作物はたっぷりあるからなあ。人と人とのつながりが濃厚で、いつも誰もが集いお互い助け合っている時代だった、時間の流れ方がゆったりしていたよ。
そういったものを、ノスタルジーだけじゃなく、誰かが伝承しなきゃいけないと思うんだ。そういう意味では、自分は一人で静かに戦っているような気がするのさ。

麦の日

土着品種の種を守る会のクラウディオさん土着品種の種を守る会のクラウディオさん

私がジルベルトさんに招待されて訪ねて行ったこの日は、彼の仲間である生産者や、農学者、先ほど名前を挙げた植物遺伝学者のサルバトーレ・チェッカレッリさんや、土着品種の農作物の種の継承活動をしているレーテ・セーミ・ルラーリ(RETE SEMI RURALI)団体のクラウディオ・ポッツイさんなど、イタリアの農業界ではそうそうたるメンバーが集い、ともにジルベルトの畑を見学しながらレクチャーを受けるという大変贅沢な”麦の日”でした。

穀物の遺伝学者の世界的な重鎮であるサルバトーレさん穀物の遺伝学者の世界的な重鎮であるサルバトーレさん

ジルベルトの会社の名前でもある”ヴィオラ”は、奥様であるヴィオリータさんの名前から取ったもの。彼の夢を支えるあたたかい笑顔がとても印象的な方でした。

刈り入れ前の金色の麦畑で、お話を聞きながら私たちは皆、人類で最初の麦を植えた誰かに思いを馳せながら、頭を垂れる思いで揺れる麦を見られることに感謝していました。
どんなに質のいい小麦粉があっても、地域経済に落とし込んでいかなければ住民には伝わっていかない、ということでジルベルトの作る小麦粉で天然酵母のパン焼きを試みているパン屋さんが焼いたパンを持ってきてくださり、皆で試食し歓声が上がったり、テーブルを囲みジルベルトの生産するレンズ豆やひよこ豆、雑穀を息子さんが美味しくお料理したものをいただきながら、尽きない麦への情熱について夜遅くまで話が咲きました。

ジルベルトの小麦粉で焼かれたパンをお披露目、とっても香ばしい!ジルベルトの小麦粉で焼かれたパンをお披露目、とっても香ばしい!

これ以上居ると午前様だから、とお詫びをしながら席を立ち、帰途に就こうとした私にジルベルトが大きな袋を担いできてくれました。古代小麦ミックスの小麦粉5キロ詰めの袋です。
ジェルビチエッラ、アボンダンツア、メック、サン•パストーレ、ソリーナ、フラッシネート、ソリバムなどの古代小麦がミックスされているそう。

遠くからはるばる来てくれたお礼だよ、と温かい言葉をかけてくれ、じんわりと感動が胸に広がります。ありがたく小麦粉を頂戴し、また遠くない未来に会おうと約束して別れました。

ジルベルトの小麦畑を思いながらジルベルトの小麦畑を思いながら

次の日私は早速パンを焼き、冷めやらぬ思いを感じながら、昨日見たあの美しい金色の麦畑を思い出していました。

ジルベルトさんの商品が購入できるウェブサイト・お問い合わせ
https://www.agrilaviola.com


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