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南部だけじゃない!北イタリアでもトマト農業&加工が栄えたわけ──トマト博物館を訪ねて

パスタやピザなどイタリア料理に欠かせない食材といえばトマト。鮮やかな色合いから、太陽が降り注ぐ南部イタリアの風景を思い浮かべる人は少なくないでしょう。


ところが、北部エミリア=ロマーニャ州パルマに『トマト博物館 Museo del Pomodoro』と名付けられたミュージアムがあります。一帯はパルメザンチーズや生ハムの名産地として知られていますが、なぜトマトなのでしょうか?その秘密をみなさんと一緒に探ってゆきます。


毒と信じられていた!

パルマ旧市街から南西へ車で走ること約30分。トマト博物館は、中世から修道院や、農産物の作業所として使われていた施設を改装したものでした。スタッフのエレナさんに館内を案内してもらいました。


解説はトマトの伝来からはじまります。南米アンデス山脈を原産とするトマトは、大航海時代にスペインを経てヨーロッパ各地に広まりました。


しかし「真っ赤なトマトは美味しそう!」と思うのは現代の私たちであって、当時の人々はトマトをなかなか口にしませんでした。「毒が含まれている」と信じてしまったからです。同じナス科の有毒植物に見た目が似ていたこともあり、赤い食用植物に接した経験がない彼らの目には、きわめて毒々しく映ったのです。そのため、まずは観賞用として広まりました。


やがて、イタリアで貧しい暮らしに喘いでいた人々が、止むに止まれずトマトを口にし始めます。以来、食用としての品種改良が徐々に始まりました。


ではトマトソースの始まりは? 17世紀末、在ナポリ・スペイン総督の専属料理人であったアントニオ・ラティーニが考案したレシピがイタリア最古とされています。続く18世紀には、同じくナポリの料理人ヴィンチェンツォ・コッラードが自著でトマトソースの汎用性を強調します。彼は相性が良い食べ物として、肉、魚、卵、野菜とともにパスタを挙げています。それ以前のパスタは、粉チーズをかける程度でした。今日多くの人が好きなパスタ+トマトソースの誕生は、長いイタリア史のなかで、かなり後のことだったのです。


パルマ郊外、コッレッキオ村にあるトマト博物館。かつては中世の農産物加工センターでした

トマトの欧州伝来や加工産業の発展など、 7つのテーマに分けて学ぶことができます

知と技術に支えられて

トマトの魅力を知った人々は、次に保存法を模索しはじめます。エレナさんによると、イタリアでは瓶詰め発明前夜、今ではみられなくなった保存法がありました。「トマトを煮て濃厚なソースを作ったあと、天日で乾燥させていました。酸化して黒くなったところを布や紙で包み、寒い時期にスープなどの料理に加えていたのです」


やがて19世紀初め、隣国フランスで、食品をガラス瓶に密閉・煮沸して殺菌する方法が発明されます。続いて英国で1810年、瓶よりも耐久性・携行性に優れたブリキ缶による食品保存が考案されました。


イタリア初の食品缶詰工場は1856年、フランチェスコ・チリオという人物によるものでした。当初別の野菜を缶詰にしていた彼は、トマト缶を作れば、より成功すると確信。ヴェスヴィオ山の火山灰土壌を活用したトマト栽培がいち早く盛んになっていた南部に工場を建てます。チリオのトマト缶は各地に出荷され、トマト料理の普及を加速させました。


往年の機械14台で工程を再現し、トマト加工品の発展を紹介しています。こちらは缶の密封工程

こうしてナポリ周辺で始まったトマト加工品の生産ですが、冒頭で記したとおり、なぜ北部エミリア=ロマーニャ地方でもトマトなのでしょうか?


「きっかけをもたらしたのは、カルロ・ロニョーリという農学者でした」とエレナさん。パルマ地方出身の彼は、地域農業振興の手段としてトマト栽培に着目。自らの研究成果をもとに1867年から新品種の導入、肥料の改良、そして生産性の高い畑づくりといった近代的トマト栽培を農家に実践させました。おかげで19世紀末から周辺にはトマト加工場も増え始め、1912年にその数は61にまで達しました。


パルマを本拠地としていた歴代企業による缶の数々。文字が読めない人にも覚えてもらいやすい、印象的な意匠が採用されました

そうしたなか、今日イタリアを代表するトマト加工品ブランドのひとつであるムッティ社が1922年に2倍濃縮、1938年には3倍濃縮にしたとトマト缶詰を開発。さらに第二次世界大戦後の1951年には、チューブ入り濃縮トマトペーストを発売します。空気との接触を最小限に抑えることで、缶詰よりも長い賞味期間を実現しました。当時アルミチューブといえばもっぱら歯磨き粉用で、食品用途とするのはきわめて大胆な発想でした。北部イタリアの高い工業技術水準も助けとなりました。ちなみに、使用後のキャップは裁縫用の指ぬきになるという妙案も採り入れていました。


ムッティ社が考案したアルミチューブ入り濃縮トマトペーストの充填機

ムッティ社は、他社に先駆けて広告宣伝を重視しました。フィアット・トポリーノの車体に濃縮トマトペーストの巨大チューブを載せた宣伝カーも、その一例。イタリア各地を巡回しました

主婦たちは、使用後のキャップを裁縫用の指ぬきとして再利用しました

北部では、さらに加工用トマトの改良が進められました。支柱を立てて育てる従来法に対して、地面に這わせる「無支柱栽培」が考案されたのです。トラクターを使って一気に刈り取り作業ができるこの方法は、生産性を飛躍的に向上させました。イタリア北部におけるトマト産業の発展は、加工製品の革新と栽培技術の賜物だったのです。


いつもの味が変わるミュージアム

今日、イタリア北部におけるトマト生産の隆盛は、数字を見ても明らかです。加工用トマト生産量の割合では、首位の南部プーリア州の34%に次いで、エミリア=ロマーニャ州は31.9%で2位を占めます。3位も隣接するロンバルディア州の9.7%です(出典:Agrifood Monitor 2017)。 北部は、南部と比肩するトマトゆかりの地だったのです。


最後にエレナさんは、こう教えてくれました。「この博物館の建物は、中世は修道院でしたが、実は缶詰用トマトの加工場として1980年まで使われていたのですよ」。それを聞いた途端、私の脳裏で、展示されている機械が音をたてて動き始めました。同時に、何世紀も家での仕事が主だった地元の女性たちが新時代の生き方を獲得し、活き活きと働く姿が瞼に浮かんだのでした。


我が家に戻って、戸棚に入っているトマト缶をあらためて見ると、小さく、しかし誇らしげにこう記されていました −− PARMA-ITALIA。長年なにげなく使ってきた品もパルマ産だったとは。その晩、いつものソースなのに、パスタと絡めた味わいがいっそう深かったのは、いうまでもありません。


「イタリア人でもパルマがトマト加工品の一大生産地であることを知らない人はたくさんいますよ」と話す、博物館スタッフのエレナさん

濃縮トマトペーストのキャップは今日では指ぬきとしては使用できませんが、ムッティ社の製品には往年の意匠が継承されています