INTERVIEW
FOOD 09 Feb 2021

イタリア修業でみつけた“濱崎流おもてなし”のかたち
「リストランテ濱崎」オーナーシェフ・濱崎龍一


1990年代の“イタメシ(=イタリア料理)”ブームから現在に至るまで、日本におけるイタリア料理界の第一線で輝き続けるイタリア料理人・濱崎龍一さん。食材の生産者から陶芸家、そして30年近くも前の修業先であるロンバルディア州マントヴァの「ダル ペスカトーレ」のサンティーニ一家と、現在も家族ぐるみで交流を深めている。「人とのつながり」を何よりも大切にしてきた濱崎さんに、イタリア時代を経て確立された“濱崎流イタリアン”の秘訣を伺った。

―――濱崎さんは鹿児島県いちき串木野市のご出身で、ご実家は「浜崎蒲鉾店」を営んでいらっしゃいます。食が身近な環境で生まれ育ちましたが、少年時代から料理に関心はありましたか。

それが、特に料理が好きなわけでもなかったんです(笑)。子どもの頃は野球をしたり、鹿児島は海が綺麗ですから、釣りに出かけたり、外で遊ぶのが好きでした。釣りは今でもよく出かけていて、実家は蒲鉾屋ですから、魚にはちょっとうるさいかもしれませんね。

高校を卒業して進路を決めるにあたり、当時はまだ17歳の若造ですからね(笑)、実家を継ぐだろうから、調理師免許を取っておこうと、日本調理師専門学校(大阪)に進学しました。
僕が子どもの頃は、今のようにイタリア料理やフランス料理のレストランがたくさんある時代ではありませんから、家族で外食といえば町中華でした。だから中華料理は比較的身近でしたね。

―――専門学校を卒業後、上京してイタリア料理店で働き始めます。時代はイタメシブームが起こる直前くらいですよね。どうしてイタリア料理に進もうと思ったのでしょうか。

そうですね。僕が上京した18、19歳の頃は、料理でいうと「ゆであげパスタ」が流行ったころ。イタメシブームはその後にやって来ました。ファインダイニングでは「キャンティ」や「リストランテ サバティーニ 青山」などが人気でした。同時にイタリアのカルチャーに注目が集まり始めたのもこの頃です。イタリアのファッションブランドの流行やスーパーカーブーム。当時の僕の目に、フェラーリなんかすごくカッコよく見えました(笑)。

パスタも好きだったし、イタリアに憧れを感じていた時、お世話になっていた先輩に声をかけてもらい、イタリア料理店で働き始めました。これもご縁ですね。

―――2年間のイタリア料理店での経験を経て、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった山田宏巳シェフが率いる「バスタ・パスタ」に入ります。この頃に同世代の料理人から、非常に刺激を受けたとか。

そうですね。僕と同年代のイタリア料理人といえば、植竹隆政さん(カノビアーノ)や倉谷義成さん(クラッティーニ)などが挙げられます。彼らはイタリアできちんと修業をして、イタリア語を話し、卓越した調理技術を持っていました。僕は負けず嫌いなところもあるので、彼らの活躍ぶりを目の当たりにして、やる気に火がつきました。これは本場を知るしかないとイタリアへ飛び、北はトリノから南はシチリアまで、3ヵ月かけて食べ歩きました。

とはいえイタリア語もできず、何も知らないまま日本を飛び出しましたから、ミシュランもガンベロ・ロッソも使い方がわからない(笑)。まずはきっちり日本で基礎を学び、それからイタリアへ渡った方が、短期間で習得できることが多かったと今ならわかります。ですから、息子も含めてウチのお店の子たちには、まず日本で基礎固めをしてから、イタリアへ行くように薦めています。
けれども当時は勢いのまま行ってしまいました。若さゆえですね(笑)。

―――その旅で「ダル ペスカトーレ」を訪れ、オーナーファミリーのサンティーニ一家と出会ったのですよね。そしてそこで働いていた日高良実さん(リストランテ アクアパッツァ)とも出会ったそうで。

サンティーニ一家には、ほんとうにお世話になりました。住み込みで働かせてもらっていたので、いわゆる従業員とはまた違う絆が生まれたのだと思います。
休日には、地元のピッツェリアに連れて行ってもらって、チーズ入りのラビオリなど、郷土料理の味を教わったり、バイクの後ろに乗って、ドライブを楽しんだりしました。結果的に、僕は体調を崩して日本に帰国したのですが、それまでずっと面倒を見ていただきました。その後もずっと親交は続いていて、結婚してからは妻と、子どもが生まれてからは息子も一緒に、家族ぐるみで親しくしています。
「ダル ペスカトーレ」の料理は、奇を衒ったようなイノベーティブなものではなく、お客様の食べやすさを考えて、素朴な郷土料理を現代的に洗練させたものでした。料理へのアプローチや、人を大切にすること。そんなイタリアらしい考え方にも影響を受けて、現在の僕のスタイルができていったのかもしれません。

―――帰国後は、日高シェフの後を受けて、「リストランテ山崎」で13年間料理長を務め、2001年に独立して「リストランテ濱崎」をオープン。どちらも日本を代表する人気店に育て上げました。
濱崎さんが手がけられるお店は、料理のおいしさはもちろん、居心地がいいことでも知られています。食材の調達や店内の設いなど、どんな工夫をしていますか。

僕はいいモノを安く買うことよりも、誰から買うかということをとても大切にしています。たとえば魚は、築地時代からお付き合いのある豊洲の仲卸さんに一任しています。野菜なら、北海道や鹿児島で、信頼できる人たちが育ててくれる有機野菜、お客様が僕のスペシャリテと言ってくださるうずらは、埼玉の狭山で、クラシック音楽を聴かせながら育ててくれています。調味料は、たとえばこの塩をちょっと舐めてみてください。結晶が大きくて美しく、塩味が丸いでしょう?これは「坊津の華」という釜炊きの天然塩で、鹿児島県南さつま市坊津町というところで、親子が手作りしています。僕はこういう人たちから、ウチの店で使うものを買いたい。モノではなく、人とのつながりが大切なのです。

―――「リストランテ濱崎」がオープンして、今年(2021年)20周年を迎えます。この先の目標はありますか。

このコロナ禍で、イタリアでの修業を一時中断することになりましたが、息子の弘瑤(こうよう・26歳)が、再度のイタリア修業を経て、そう遠くない将来、厨房に入ると思います。アイツはイタリア語も堪能ですし、最初のきっかけこそ僕が紹介しましたが、イタリアでの人とのつながりも、自分なりにどんどん開拓しているようです。アイツが帰って来たら、ウチの店の料理も変わるのではないでしょうか。
その時僕は、上に立ったり、譲り渡したりするのではなく、一緒にあれこれ考えて変化していけたらと思っています。

リストランテ濱崎店内

<インタビューを終えて>
インタビュー中、何度も大切なものとして「人とのつながり」や「ご縁」を挙げた濱崎さん。コロナ禍でも、たくさんのお客様が応援してくださり、人とのつながりやご縁に改めて感謝したそうです。
弘瑤さんが厨房に入ったら、野菜やハーブなども育てて料理に使ってみたいとか。「リストランテ濱崎」の新しい第二章を、近い将来またこちらでレポートしたいと思います。


<プロフィール>

濱崎龍一
1963年、鹿児島県出身。日本調理師専門学校(大阪)卒業。イタリアのフィレンツェ、マントヴァ「ダル ペスカトーレ」(現三ツ星)などで研鑽を積む。1993年より「リストランテ山崎」料理長。2001年独立。同年12月にオーナーシェフとして「リストランテ濱崎」をオープン。
2013年「薩摩大使」「いちき串木野観光大使」に就任。2015年「鹿児島食の匠」認定。
イタリア料理協会副会長。
主な著書に「使える鶏レシピ」(柴田書店)、「リストランテ濱崎の野菜料理」(講談社)など。
http://ristorantehamasaki.com/

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WRITER PROFILE
Shifumy
Shifumy

ガストロノミーツーリズムをテーマに、ファインダイニングを中心にストリートフード、家庭料理、郷土料理、ワイナリーや酒蔵などを取材して各種メディアで執筆。著名なシェフや生産者、作家、アーティストなどセレブリティへのインタビューも多い。訪れた国は60カ国以上。著書に電子書籍「ほろ酔い鉄子の世界鉄道~乗っ旅、食べ旅~」(小学館)シリーズ3巻。