FOOD

FOOD

エスプレッソ・メーカー「モカ」 八角形に秘められた物語

小さなカップ誕生の秘密

イタリア人のコーヒーブレイクに欠かせないエスプレッソ。バールで「カフェ!」とオーダーすれば、バリスタが迷いもなく差し出すのは小さなカップに入ったそれです。
いっぽうで、家庭で淹れるのに欠かせない道具といえば、通称「モカ」で親しまれる直火式エスプレッソ・メーカーです。

というわけで、今回はイタリアを代表する老舗家庭用品ブランド「ビアレッティ」社が発明した、モカにまつわるお話です。

その前に、少しだけエスプレッソ・コーヒーの歴史を振り返っておきましょう。
よくよく考えてみれば、エスプレッソは、なぜあれほど量が少ないのでしょうか?

きっかけは、ナポレオンによる1806年の「大陸封鎖令」です。本来は英国経済を窮地に陥らせるための政策でしたが、欧州大陸側の貿易にも大きな影響を与えました。輸入に依存していたコーヒー豆の価格が高騰。苦肉の策として、ローマの「カフェ・グレコ」で店主がカップを1/3まで小さくし、かつ注ぐ量を減らしたことが、今日のサイズの始まりとされています。

ナポリのバールにて。イタリアにおける一般的な量より、さらに少なめに抽出するのがナポリ流。ナポリのバールにて。イタリアにおける一般的な量より、さらに少なめに抽出するのがナポリ流。

マシンは普及しても

ただし、この時点でお客に供されていたのは、まだエスプレッソ・コーヒーではありません。

世界初のエスプレッソ・マシンが誕生したのは、約1世紀後の1901年、ミラノでのことでした。
espressoとはイタリア語で「急速」の意味。蒸気圧を利用し、コーヒーパウダーから液を瞬時に抽出することから名づけられたものです。
発明者から特許を取得した企業が1906年ミラノ万博でエスプレッソ・マシンを紹介したことを機に、イタリア全土のバールに普及していきました。

とはいえ、当時は女性が社会進出する前夜。バールでエスプレッソ・コーヒーを嗜むのは、主に男性の習慣でした。マシンも今日から比べると大掛かり、かつ高価で、家庭用には程遠いものだったのです。

一般家庭では?というと、「ナポリ式」とよばれるドリップ式コーヒー・メーカーが主流でした。ただし抽出に時間を要し、なによりも急速に抽出するエスプレッソとは旨味が明らかに異なりました。

エスプレッソをすべての人に

ここからが今回の本題である、ビアレッティ社の「モカ」誕生のストーリーです。

1919年、創業者アルフォンソ・ビアレッティは、北部ピエモンテ州に金属加工会社を興します。ある日のこと、彼は妻が洗濯に使う器具をぼんやりと眺めていました。当時一般的だった洗濯釜「レシヴォーズlessiveuse」 でした。

洗濯物、灰汁(または洗剤)、そして水を入れて火にかけると、沸騰水が中央の細いパイプ内部をつたって上昇。その後、水は下降しながら洗濯物に浸透していきます。つまり、水流の循環で汚れを落とす仕組みでした。

アルフォンソは、その構造をヒントに研究を続け、1933年に初の家庭用直火式エスプレッソ・メーカー『モカ・エクスプレス』、愛称モカを発売します。

八角形のフォルムにしたのは理由がありました。上部(サーバー)と下部(ボイラー)を着脱する際に、手で掴みやすく、かつ表面が濡れていても滑りにくくするためでした。

モカのお陰で、エスプレッソはバールを飛び出し、家庭で気軽に楽しめる飲み物になったのです。

創業者アルフォンソ・ビアレッティが1933年に発明した初代『モカ・エクスプレス』。MOKAの名は、コーヒー豆の生産地として有名なイエメンの都市モカにちなんだといわれます。創業者アルフォンソ・ビアレッティが1933年に発明した初代『モカ・エクスプレス』。MOKAの名は、コーヒー豆の生産地として有名なイエメンの都市モカにちなんだといわれます。

右は 「レシヴォーズ」と呼ばれた洗濯釜。沸騰した水がパイプをつたって上昇・循環する様子は、直火式エスプレッソ・メーカーのヒントになりました。 左は「モカ」の仕組み。熱した水がパイプを通って上昇し、充填してあるコーヒーパウダー内を熱湯が高速で通過。抽出されたコーヒーがサーバー内に溜まります。右は 「レシヴォーズ」と呼ばれた洗濯釜。沸騰した水がパイプをつたって上昇・循環する様子は、直火式エスプレッソ・メーカーのヒントになりました。
左は「モカ」の仕組み。熱した水がパイプを通って上昇し、充填してあるコーヒーパウダー内を熱湯が高速で通過。抽出されたコーヒーがサーバー内に溜まります。
イラスト / Mari Oya

“ヒゲのおじさん”は誰?

ビアレッティ社では第二次世界大戦後まで、その八角形のモカを1台ずつ職人が手作りしていました。
のちにアルフォンソから事業を継いだ子息レナートは、その大量生産へと舵を切ります。

さらにレナートは、近代的な宣伝の重要性にいち早く着目。1950年代から雑誌や当時唯一のテレビ局であったイタリア国営放送(RAI)を通じて、積極的な広告を展開しました。

そのテレビコマーシャル用のイメージキャラクターとして考案されたのが、今日も同社製品の表面に描かれているヒゲのおじさんです。制作を手掛けた人気アニメーション作家パウル・カンパーニがモデルにしたのは、なんと髭をたくわえたレナートでした。

指を立てている姿は、バールでバリスタを呼ぶ時のポーズとか。ユーモラスなキャラクターはイタリアでお茶の間の人気者となり、ビアレッティのモカも一気に知名度を上げました。

惜しくもレナートは2016年に93歳でこの世を去りました。葬儀の聖壇には巨大なモカが飾られ、多くのイタリア人が“ヒゲのおじさん”との別れを惜しみました。

創業2代目であるレナート・ビアレッティの時代に作られたモデル。1950年代。創業2代目であるレナート・ビアレッティの時代に作られたモデル。1950年代。

モカの特許申請図面。モカの特許申請図面。

アニメのキャラクター“ヒゲのおじさん”がエスプレッソの淹れ方を解説する広告。アニメのキャラクター“ヒゲのおじさん”がエスプレッソの淹れ方を解説する広告。

往年の雑誌広告から。「マンマはどこ? キッチンでモカ・エクスプレスと一緒だよ」と書かれています。往年の雑誌広告から。「マンマはどこ? キッチンでモカ・エクスプレスと一緒だよ」と書かれています。

使い込むほど増す味わい

ビアレッティ社は2021年で創業102年。今やモカは、イタリア家庭のキッチンに必ず1台以上あるアイテムになりました。

発売当初から変わらぬ使いやすさと洗練されたデザインが評価されて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品にも選定されています。加えて、歴代のスペシャル・エデションは、世界中の「モカ」ファンたちのコレクターズアイテムになっています。

『モカ・エクスプレス』は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品に。『モカ・エクスプレス』は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品に。

特別仕様『モカ・アルピーナ』は、イタリア軍の山岳部隊が被る、羽飾り付き山岳帽をモチーフにしたもの。特別仕様『モカ・アルピーナ』は、イタリア軍の山岳部隊が被る、羽飾り付き山岳帽をモチーフにしたもの。

メイド・イン・イタリーの象徴となったモカへのオマージュである、トリコローレ仕様。メイド・イン・イタリーの象徴となったモカへのオマージュである、トリコローレ仕様。

電気式モカや家庭用小型エスプレッソ・マシンが普及した今日でもなお、昔ながらの直火式にこだわるイタリア人は少なくありません。

知人のモニカさんもそのひとりです。彼女のキッチンには、ビアレッティ社のモカ以外にも、家族や知り合いから譲り受けたという直火式コーヒー・メーカーがいくつも並んでいました。
「火にかけて抽出がほぼ終わる頃に、ポコポコと合図する音が堪らなく愛おしいの」とモニカさん。

そして、「使えば使い込むほど、コーヒーがモカに馴染んで味わい深くなります。だから使用後は水洗いのみ。絶対に洗剤を使ってはダメですよ」と教えてくれました。モカ本体にコーヒーの香りと豆の油分を残しておくと金属臭が抑えられ、より美味しいエスプレッソが淹れられるといわれているためです。

時とともに風合いが増して柔らかくなるレザー、穿き込むほどに体に馴染むジーンズのように、使い込んでいくことによって生まれる価値もまた、モカの魅力なのです。

イタリアのコーヒー文化を変えたエスプレッソとモカ誕生のストーリー、それを愛し続ける人の想いに触れたあとで飲むエスプレッソは、いつもよりさらに豊かな味わいになります。

直火式エスプレッソ・メーカーをコレクションするモニカさん。「代々家に受け継がれたものをその日の気分によって使い分けています」直火式エスプレッソ・メーカーをコレクションするモニカさん。「代々家に受け継がれたものをその日の気分によって使い分けています」

モニカさんのコレクションの一部。一番左はナポリ式とよばれるドリップ式コーヒー・メーカーです。モニカさんのコレクションの一部。一番左はナポリ式とよばれるドリップ式コーヒー・メーカーです。

写真 / BIALETTI, Mari Oya

イタリアの情報が満載のメールマガジン登録はこちらをクリック