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イタリアの郷土料理を尊重するということ 東京・亀戸「メゼババ」シェフ高山大 Vol.4【イタリアに焦がれて】

イタリアでは”RISI(リーズィ)”という方言で通る米料理

高山は古典をさらう。誰がどう調整したかわからないレシピではなく、ルーツをたどり、原典に当たる。そうして現代の東京にも届く「イタリアの料理」をつくる。
前回紹介したイタリアの郷土料理書の古典“LE RICETTE REGIONALI ITALIANE”(1967年初版発行)にある料理のつくり方や材料は何度もさらったという。もっとも、そこに事細かに書いてある分量は「当てにしない」。

「僕が作るべきイタリアの料理の味は、もう自分のなかにあります。本を見るのはそれぞれの地方のやり方を確認し、整理するため。その地方に根づいた料理に敬意を払いながら、東京で受け入れられる『イタリアの料理』はどういうものかを考えるんです」

そう言いながら、どこか懐かしそうにページをめくっていた高山の手がふと止まった。

「例えば、この料理も守るべき一線がはっきりした料理ですね」

“RISI E BISI”(リーズィ・エ・ビーズィ)。ヴェネツィアを州都とするヴェネト州の方言で『米と豆』を意味するこの料理は、ヴェネト州の春に欠かせない一皿だ。一言で言うと「グリーンピースのリゾット」だが、リゾットと言うには汁気が多い。

RISI E BISIとイタリアの公用語で「米と(エンドウ)豆」を意味するriso e piselliが書かれた本

“RISI E BISI”の下のカッコ書きには”riso e piselli”(イタリアの公用語で「米と(エンドウ)豆」の意)と書かれている。

ヴェネト州はイタリア有数の米どころだ。それだけに米の食べ方のバリエーションも豊富だ。

他の地方を含め、ふつうのリゾットはアルデンテを目指しつつ、米にブロード(出汁)をしっかり吸わせる。そして、仕上げにチーズをたっぷり振る。できあがりはぽってりとしている。

「ところが”RISI E BISI”はアルデンテになんか仕上げない。できあがりも『汁だく』だし、チーズも軽め。もちろん『我が家はそこまで汁を多くしない』とか『グリーンピースはクタクタになるまで煮る』というふうに各家庭や店ごとの味はありますが、全体としては先に挙げた特徴の範囲に収まる料理だと思います。米料理の多いヴェネト州でもこんな仕上げをするのは、”RISI E BISI”だけですね」

特徴はまだある。州北部の一部には生ハムやサラミの端っこを刻んで入れる地域もあるが、基本的には肉や魚といった具はNG。バジリコやトマトは「死んでも入らない」。近年のイタリアのリゾットには、アルデンテを保ちやすいカルナローリ米が多く使われるが、アルデンテにこだわらない”RISI E BISI”には味なじみのいいヴィアローネ・ナノ米が好まれる。

というふうに、条件を明文化すればきりがない。だがその味に親しんだ人にとっては無意識のうち、何の気なしに守られる一線がある。思い起こせば郷土料理とはそういうものだ。その本質をすくい取り、イタリアから1万km近く離れた東京・亀戸で提供するのが高山の仕事なのだ。

そのパスタは「硬い」? それとも「生」?

「似たような料理でも地方によって、好みや味の方向性が違ったりもしますよね。例えばパスタ。『アルデンテ』に代表される芯を感じるような食感は南の方では好まれますが、(中部の)トスカーナでは”crudo”(クルード)――『生』だと言われる。『crudoだから、もっと茹でてよ』というようなニュアンスです。『硬い』ではなく『生』だと言うんですね。トスカーナあたりだとパスタにも1本1本火をきっちり入れたほうが好まれます」

「硬い」という形容表現ではなく、「生である」と事実としての線を引く。その前提には「トスカーナに暮らす我々にとって」という強力なカッコ書きがある。そもそもイタリアは各地方でルーツとなる民族の文化や様式も違う。だからこそ郷土料理も多様で、日々の暮らしに根ざす各地方の”味”のアイデンティティも強い。

皿に盛られたアサリのパスタ

「イタリアには全土で統一された『これが絶対!』という味や食感はありません。それでもトスカーナの郷土料理に合わせるならトスカーナの茹で方が合う。『もうちょっと硬いほうがいいね』って言うお客さんも確かにいますけど、意図を説明すれば納得してもらえます。啓蒙しようとかいうつもりは全然ありません。ただイタリアの多様なおいしさを喜んでもらえたらうれしいですよね。パスタなら『夏の魚介には(南部の)ナポリくらい硬く茹でたパスタもおいしいかな』とか。それでも、郷土の文化として残ってきたそれぞれの地方の料理の芯は侵さないようにしたい。それはイタリアの料理の”骨”ですから」

強靭で正しい骨を組むからこそ、高山が差し出す料理はカウンターの向こうへと強く届く。もちろん客に出す料理である以上、素材は重要だ。しかし素材自体が「イタリアの料理」の骨格になることはない。

「例えば、うちに肉を送ってくれる新保(吉伸)さん(※滋賀県の肉店「サカエヤ」店主)の肉は確かにすごくいい。で、いい肉が来たらどうするかというと、焼いて切るだけ(笑)。いい肉はシンプルに焼くのがやっぱりおいしい。外にこんがり焼き目をつけて、内部を温める。火入れの加減や熱源の違いはあっても、新保さんの肉を使ってる店なら肉焼きの基本的な考え方はそう大きくは変わらない。フレンチの高良(康之)さん(※元銀座「レカン」総料理長。10月に銀座に新店をオープン)や、イタリアンなら駒沢の「イルジョット」もそうだと思います」

皿に盛られた肉の繊維に沿ってカットされたブラウンスイス牛のカイノミ

サカエヤの新保氏が「手当て」をしたブラウンスイス牛のカイノミ。髙山は「焼いて切っただけ」というが、よく見ると肉の繊維に沿ってカットされている。目の前の肉に合わせて焼きやカットは無限に変わる。

サカエヤの肉を仕入れる店には、必ず肉焼きと向き合うシェフがいる。だがシェフの個性が際立つのは、「焼き」のその先の引き出しを開けたときだ。

「どこで聞いたか忘れちゃったんですが、気に入っているフレーズがあるんです。確か『形を変えて自然。火を入れてなお新鮮』というようなフレーズ。僕の仕事はこうありたいなって」

東京・亀戸にあるイタリアンレストラン、メゼババのシェフ高山大

「メゼババ」シェフ 高山大(たかやま・はじめ)
宮城県生まれ。大学中退後、奥沢の「ヴィゴレット」勤務の後、単身イタリアへ。数年間のイタリア生活からの帰国後、西麻布などのイタリア料理店を経て2013年「メゼババ」をオープン。質実剛健なイタリア料理で連夜、舌の肥えた客を熱狂させ続けている。

【連載第1回】歓喜と悶絶のカウンター 東京・亀戸「メゼババ」シェフ高山大 Vol.1【イタリアに焦がれて】
【連載第2回】「furbizia」と「italianità」 東京・亀戸「メゼババ」シェフ高山大 Vol.2【イタリアに焦がれて】
【連載第3回】「italianità」を得るために 東京・亀戸「メゼババ」シェフ高山大 Vol.3【イタリアに焦がれて】
【連載第5回】お客さんに喜んでもらうために 東京・亀戸「メゼババ」シェフ高山大 Vol.5【イタリアに焦がれて】

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