巡礼路に響くハンマー
中世のカトリック信者たちを駆り立てた聖地巡礼。人々はイギリス南部から、フランス、アルプス山脈を超えてローマを目指しました。ルートはフランチージェナ街道と呼ばれ、イタリア中部ではシエナ地方も縦断します。
そのシエナである日、街道を歩いているとハンマーの音が聞こえてきました。リズミカルな響きに惹かれて店を覗くと、ひとりの紳士が仕事をしています。それこそ、今回紹介する皮革工房&ショップ『カーザ・デッレ・ペッレ Casa Delle Pelle』でした。
質素な外観と対照的に、店内には色とりどりのカバンが所狭しと並んでいます。なかでも私の目を惹きつけたのは、カジュアルさと“キチンと感”双方を備えたバックパックでした。イタリアらしさ溢れるスタイリッシュなものです。進学や就職など、門出の季節に背負ったら明るい一歩を踏み出せそうな、まさに“大人のランドセル”です。
工房兼店舗を仕切るパオロ・インフンティさんに作業を見せてもらいながら、彼がクラフツマンとなったいきさつを尋ねました。
ピンチをチャンスに
「私はワインの里として知られる、キャンティ地方の小さな村で生まれました。両親はダミジャーナを作る職人でした」。ダミジャーナ(damigiana)とはワインを貯蔵する大きなガラス瓶のこと。胴には籐などで編んだ覆いが施されています。その籐を編むのが両親の仕事でした。
しかしパオロさんが14歳のとき、父親が急逝してしまいます。そのため彼は家計を支えるべく、学業を終えるとフィレンツェの老舗レザーブランドの下請け工場に就職しました。「任されたのは、バッグに用いる革を裁断する工程でした。技術を習得した私は、やがて自ら受託生産の会社を立ち上げました」。
デザインから縫製まで一貫してできるように事業拡大を図ると、ドイツやオランダなどから注文が舞い込むようになったといいます。
ところが従業員を増員して前途洋々だった矢先、取引先の代金未払いが原因で会社は倒産に追い込まれました。失意のなかで糊口を凌ぐべく、ひとり細々と作業を続けていたパオロさん。そこに、さらなる不運が襲います。工具を滑らせて、親指に大きな傷を負ってしまったのです。
「今振り返れば、事故が私の人生最大の転機でした」とパオロさんは語ります。保険金が支払われるやいなや、それを握りしめて、古くからタンナー(製革業者)が集まるフィレンツェのサンタ・クローチェ・スル・アルノへと向かいました。彼が治療費を充ててまで手に入れたかったのは、カバンを仕立てる革でした。心機一転、クラフツマンの原点に戻り、数で勝負するのではない理想のカバンを作ろうと考えたのです。「倒産後も、再起を信じてミシンなどの機械だけは手元に残してありました」。
こうしてパオロさんは36歳でシエナ旧市街に小さな皮革工房を構え、再スタートを切りました。「最初は、意に反して修理依頼ばかり舞い込みました。それでも彼の真摯な対応が評価されて、次第にカバンのお客さんが増えていったんです」と嬉しそうに話すのは、傍でパオロさんを支え続けてきた妻・レティーツィアさんです。
試練の先にあったもの
常にスタイルと実用性を追求してきたというパオロさん。「レザーの上質な素材は、手触りと共に特有のほのかな香りも楽しめます。手作りの個性に愛着を感じて、一生のお供にしてもらえたら嬉しいです」。
冒頭で紹介したリュックサックは、書類の収納しやすい機能性が評判となり、地元のビジネスマンや弁護士の御用達にもなっています。
学生都市シエナならではのエピソードも聞かせてくれました。創立を1240年に遡る「シエナ大学」とイタリア語の教育・研究機関である「シエナ外国人大学」には、世界各国から学生たちが集います。「あるとき、ひとりの外国人学生が『留学記念に』とリュックを買い求めてくれました。そこから次第に口コミで評判が広がっていったのです」。おかげで彼らの間でも、パオロさんのリュックサックはちょっとした人気アイテムです。
今やドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、そしてロシアなど国外の顧客からも、感謝のメッセージが毎日のように届きます。なかには、来店時に接客したパオロさん&レティーツィアさんの人柄を懐かしむ文面も少なくありません。
パオロさんは「私はもともと必要に迫られてこの世界に入った人間ですから・・・」と、自身の歩みを振り返ります。「それでも、忍耐強く試行錯誤を繰り返せば、最後には自分の思いを反映した作品を生み出せます。それこそが、私の仕事の喜びとなりました」。
パオロさん73歳。彼の穏やかな笑顔は、店の前を通る巡礼者のように、苦難の道を歩んできた者だけが得られる幸福感によるものなのです。
INFORMATION:
Casa Delle Pelle https://sienahandmadeleatherbags.com