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620万ドルのバナナの男が一夜限りの展覧会を開催

Wakapedia

2025.08.08

情熱と混沌が渦巻くナポリの港から、エメラルドグリーンの海を渡ってたどり着くカプリ島。セレブのバカンス地として名高いこの島の東端に、まるで地中海に突き出すように佇む建築がある。「カーサ・マラパルテ」だ。フランスの巨匠、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画『軽蔑』の舞台であり、Jacquemusの15周年を記念したショーでは、BLACKPINKのJennieがランウェイデビューを飾ったことでも知られるこの場所は、海からしかアクセスできない。まるで選ばれし者のみに開かれた、神秘的な聖域のようだ。





そんな場所で、2025年7月9日、現代アート界の異端児マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)が一夜限りの展覧会『Fear of Painting(絵画への恐れ)』を開催した。この展示は、ピカソやウォーホル、村上隆などを擁する世界最大級のギャラリーであるガゴシアン・ギャラリー(Gagosian Gallery)とのコラボで実現し、アート業界でも注目を集めた。


完全招待制・撮影禁止。招待された者のみが立ち会えたその夜、カテランは、絵画をあえて排除することで「見ることとは何か?」という問いを投げかけた。絵がない展示空間で、私たちは彫刻を見ながらも、絵画の不在を強く感じるのだ。それによって、私たちは、「見る」とはどういうことか、何を見ようとしているのかを考えさせられる。



なぜカーサ・マラパルテなのか?なぜ一晩限りなのか?


カーサ・マラパルテは、作家であり政治思想家でもあったクルツィオ・マラパルテが「私自身のような家」と表現した建築。クラシックと前衛、孤独と美、政治と芸術が交錯する空間だ。クラシックと前衛、孤独と美、政治と芸術がせめぎ合う空間であり、これまでにも数々の国際的アーティストたちがこの場所を舞台に展示を行ってきた。


そんなラグジュアリーな場所で、あの620万ドルのバナナで名を轟かせたマウリツィオ・カテランが一夜限りの招待制イベントを開催したことに違和感を感じたのはワカペディアチームだけじゃないはず。彼はこれまで、アートの消費性や富裕層の娯楽化を痛烈に皮肉ってきたアーティストだ。壁にバナナを貼り付けただけの『Comedian』で620万ドルの価値を生み出し、アートマーケットの不条理を笑い飛ばした男が、よりによってセレブの島で、完全招待制の展示を行うなんて・・・。


だが、それこそがカテラン流の皮肉なのかもしれない。 


カプリ島行きの船が発着する港町ナポリでは、日焼けした女性に陽気なナポレターノが軽やかに声をかけ、忙しなく行き交う車のスピーカーからは、恋や裏切り、家族の葛藤を歌うネオメロディコが爆音で流れる。狭い路地の頭上には洗濯物が風にはためき、そのすき間からバルコニーに現れたマンマは、ヴェスヴィオ山ばりの熱量で、道を歩く息子に怒鳴る。そんな情熱に満ちた日常を支えるのは聖母マリアとマラドーナへの永遠の信仰心なんだとか?!(ちなみに、ワカペディアチームの友人のちょいワルオヤジことジローラモ・パンツェッタもナポリ出身。これでナポリターノがより明確になったはず!笑)


ジローラモ・パンツェッタ ポートレート。ワカペディアインタビューより クレジット:Wakapedia 
ジローラモ・パンツェッタ ポートレート。ワカペディアインタビューより クレジット:Wakapedia 

そんな大衆的で人間味あふれる街とは対極の地、カプリ島を舞台に選んだのは、ラグジュアリー化したアートの現状を再演するためだったのかもしれない。しかも、展示は一晩限りで、完全撮影禁止。この記録ではなく、記憶に残す演出は、SNS映えを価値基準とする現代への逆襲のようだ。あるいは、こうして私たちが意味を探り、勝手な解釈を始めること自体を、カテランは見越していたのかもしれない。いや、何も考えていなかった可能性もある。それこそが、最もカテランらしい答えなのかもしれない。


『AMERICA』(2016)と名付けられた18金の便器(しかも実際に使用可能)。イギリスでの展示中に盗まれ、メディアを大いに賑わせた。トランプ大統領夫妻への貸し出しが提案されたが、ホワイトハウスからの返答はなく、実現には至らなかったという逸話もある。
『AMERICA』(2016)と名付けられた18金の便器(しかも実際に使用可能)。イギリスでの展示中に盗まれ、メディアを大いに賑わせた。トランプ大統領夫妻への貸し出しが提案されたが、ホワイトハウスからの返答はなく、実現には至らなかったという逸話もある。

カテラン流「遠慮ゼロ、タブー上等」


イタリア北部・パドヴァ出身のマウリツィオ・カテランは、死体安置所の看護師という異色の経歴を持つ。彼の作品は、常識も聖域も素材に変える命知らずの挑発に満ちている。


壁にグレーのダクトテープでバナナを貼り付けただけの『Comedian』は、アート市場の不条理を笑い飛ばすように620万ドル(当時の為替で約9億6000万円)で売却され、世界中をざわつかせた。さらに、カトリックの総本山バチカンが存在するイタリアで、教皇ヨハネ・パウロ2世が隕石に打たれて倒れる彫刻『La Nona Ora』を発表するという、まさに命知らずの挑発も行っている。そして、ミラノの証券取引所の建物の前に中指を立てた巨大な彫刻『L.O.V.E.』を設置するなど、カテランは怖いもの知らず。常識も聖域も、彼にとってはただの素材にすぎないのだ。


白いカッラーラ大理石でできた匿名の死者を象徴する9体の死体袋を示唆する『All』。死は誰にでも訪れるものであるという現実を示唆する。クレジット:Communication Design
白いカッラーラ大理石でできた匿名の死者を象徴する9体の死体袋を示唆する『All』。死は誰にでも訪れるものであるという現実を示唆する。クレジット:Communication Design

絵画なき空間で、絵画の幻影と向き合う


タイトルに『Fear of Painting』と掲げながら、実際に展示されているのは彫刻のみという皮肉とユーモアに満ちた構成にカテランらしさを感じずにはいられない。絵画を排除することで、逆説的に絵画の存在が浮かび上がり、現代アートにおける「絵画の死」や視覚芸術の本質について問いかけているように見える。


作品には、古典的な胸像のようなフォルムや、瀕死の鳥を支える手、顔を覆う手などが登場する。鳥は本来、空と自由の象徴。しかし、大理石で固められ動きを奪われたその姿は、沈黙と喪失のアイコンへと変貌している。顔顔を覆う手もまた、人間が直視を避ける現実、心の奥深くに押し込めた感情のメタファーのようだ。


彫刻に用いられた冷たくて重い大理石は、空間に静けさと重厚感をもたらし、見る者の内側に深く響いてくる。絵画のようなストーリーテリングに頼らず、鑑賞者の感受性に委ねられた表現であるのだ。

『Bones』(2025) 翼を広げたまま地面に横たわる巨大な鷲の彫刻。かつて権力と支配の象徴だった鷲は、ここでは敗北と脆さのアイコンとして描かれ、自然との断絶や帝国的価値の崩壊を静かに物語る。 クレジット:Lorenzo Palmieri
『Bones』(2025) 翼を広げたまま地面に横たわる巨大な鷲の彫刻。かつて権力と支配の象徴だった鷲は、ここでは敗北と脆さのアイコンとして描かれ、自然との断絶や帝国的価値の崩壊を静かに物語る。 クレジット:Lorenzo Palmieri

『Fear of Painting』とは、絵画への畏敬か、あるいは拒絶か。その曖昧な感情を、カテランは沈黙の彫刻によって浮かび上がらせる。絵画を排した空間で、私たちはむしろ絵画の幻影と向き合うことになるのだ。カーサ・マラパルテという舞台の力も借りながら、カテランは視覚芸術の根源に迫る、挑発的な問いを投げかけている。


『Breath』(2021) マウリツィオ・カテラン『Breath Ghosts Blind (和訳:呼吸、幽霊、盲目)』展より(HANGAR BICOCCA) 暗闇に静かに横たわる男性と犬の等身大彫刻が、生と死、孤独と共生を静かに問いかける。
『Breath』(2021) マウリツィオ・カテラン『Breath Ghosts Blind (和訳:呼吸、幽霊、盲目)』展より(HANGAR BICOCCA) 暗闇に静かに横たわる男性と犬の等身大彫刻が、生と死、孤独と共生を静かに問いかける。



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