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魂の源を訪ねて モディリアーニの故郷リヴォルノ

大矢 麻里 Mari Oya

2025.04.30

大阪・京橋の山王美術館では、2025年3月1日から7月31日まで「エコール・ド・パリ展」が開催されています。École de Parisとは、20世紀初頭から第二次世界大戦前後にかけて、フランス・パリに集まった画家たちのグループや潮流を指します。展覧会で紹介される30点の中には、アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)による『ほくろのある女性』も含まれています。


モディリアーニが描いた人物像の多くは、引き伸ばしたような顔と体、そしてアーモンド型の目が特徴です。ときには瞳を描くことさえせず、見る者を静謐かつ神秘的な世界に引き込みます。

本人を語るとき、最も焦点が当てられるのは、パリ時代の芸術家たちとの交友や奔放な生活ぶりです。しかし、彼の故郷トスカーナ州リヴォルノが彼に与えた影響は、あまり触れられる機会がありません。そこで実際に町を訪ねて考察していきます。


母親に導かれた創造性

モディリアーニの生家は、今もリヴォルノ旧市街のローマ通り38番地に資料館として残されています。同館のスタッフ、ジルダ・ヴィゴーニさんは説明します。「1884年7月12日朝9時30分、アメデオ・モディリアーニは、台所にある大理石製テーブルの上で生まれたとされています。父はローマから、母はフランスのマルセイユから移り住んだ、いずれもスペイン系ユダヤ人でした。アメデオは、地元ではデド(Dedo)の愛称で親しまれたのですよ」

アメデオ・モディリアーニの生家。ファサードには「画家アメデオ・モディリアーニは、ここで命と才能と美徳を与えられた」と書かれたプレートが。近くには胸像も置かれています。

乳母の膝におさまる幼きアメデオ。誕生の翌年1885年に撮影。(photo : Casa Natale Amedeo Modigliani)

モディリアーニ家は、いわゆる中産階級の家庭でした。しかしアメデオの誕生直前、父フラミニオは鉱山事業への投資に失敗し、大きな損失を被ります。さらに生まれたアメデオは病弱で、まもなく結核にも冒されました。そうしたなか母エウジェーニは自身の高い教養をもとに、自宅で語学、文学、歴史そして哲学などの私塾で家計を支えます。

さらに彼女はアメデオを連れてイタリア各地をまわり、転地療養を試みるとともに芸術文化に触れさせました。「エウジェーニは息子の才能をいちはやく見抜いていたのです。ですからアメデオが美術学校への進学を希望したときも、真っ先に賛成しました」とジルダさんは語ります。

現在は資料館となっているモディリアーニの生家は19世紀中盤の建物。家具は再現されたものですが、床のタイルは一家が暮らした当時のまま残されています。

異文化を受容した町

欧州のユダヤ人にとって、19世紀末から20世紀初頭は苦難の時代でした。にもかかわらず、モディリアーニ家が比較的自由で知性の涵養(かんよう)に時間を割けたのは、なぜでしょうか?そこにはリヴォルノならではの時代背景がありました。

ときは中世。フィレンツェのメディチ家は1421年、リヴォルノを支配下に置きました。やがて15世紀半ば、大航海時代が始まって大西洋航路が盛んになると、地中海貿易で潤っていたフィレンツェは困窮するようになりました。

リヴォルノのフォルテッツァ・ヴェッキア(旧要塞)。ピサの支配時代に築かれた防衛拠点を、16世紀にトスカーナ大公国が要塞として整備したものです。

事態を重く見たメディチ家のフェルディナンド 1世(第3代トスカーナ大公)は1587年、港町リヴォルノを国際貿易の拠点とすべく、勅許状「リヴォルノ憲章」を公布します。異教徒を対象に、彼らの信仰や商業活動の自由、財産の保護、そして裁判権を保障したものでした。とくに信仰の自由は、カトリック文化が浸透していたイタリア半島の都市国家群のなかでは、きわめて寛容な移民・宗教政策でした。今日流にいえば、外国人による投資を促進したのです。

フェルディナンド 1世の命で結成された聖ステファノ騎士団が、海賊に勝利したことを記念して作られたモニュメント。

その結果リヴォルノには、セファルディ系(スペイン・ポルトガル出身)のユダヤ人が多数移住してきました。彼らは憲章のおかげで、他都市に見られるゲットー(強制的居住区)に住まわされることもありませんでした。16世紀から19世紀にかけてユダヤ人住民比率は、人口の約1割を占めるに至り、彼らの潤沢な資本と活発な商業活動は、リヴォルノを地中海貿易の重要港へと押し上げる力となりました。


モディリアーニ家の先祖が移住した時期について正確な記録は残されていません。しかし勅令の恩恵を受けて16世紀にイタリア半島にやってきた、もしくは19世紀中頃アメデオの曽祖父か祖父の時代にリヴォルノに定住したという説があります。


ユダヤ人であったモディリアーニ家が芸術や教養に親しむ暮らしができたのは、こうした地域の歴史的背景があったからなのです。

リヴォルノのユダヤ教会「シナゴーグ」。現在の建物は1962年に再建されたもの。市内には現在も約500人のユダヤ人が暮らします。

港町が育んだ孤高のまなざし

アメデオ・モディリアーニは22歳になった1906年、ついにリヴォルノを発ち、芸術の都パリの地を踏みます。しかし彼は酒や薬に溺れ、結核により35歳にして早逝します。死の翌日には、恋人でモデルでもあったジャンヌ・エビュテルヌが、彼との子どもを身籠ったまま投身自殺を図るという悲劇も続きました。


モディリアーニのパリでの活動期間はわずか14年。その間に彼の作品は評価されることがありませんでした。当時のパリは、キュビスム(立体派)やフォーヴィスム(野獣派)など、より前衛的で大胆な動きが中心となっていました。自身の感情や人間の本質を自由な発想で描くモディリアーニの画風は、時代の先端をいく芸術の主流とは異なるスタイルだったのです。

その端正な風貌と漂う雰囲気から、パリの芸術家コミュニティでは写真を撮られる機会が少なくなかったとか。女性にもかなり人気だったことがうかがえます。(photo: Casa Natale Amedeo Modigliani)

しかしながら人生とは皮肉なものです。モディリアーニの死後、悲劇的でセンセーショナルな人生に注目が集まると、彼の作品に対する関心も高まっていきました。やがてモディリアーニのように抒情的な独自の人物表現が再評価される時代も訪れました。

彼が時流の喧騒に踊らされず、他者とどう共存するかを学び、同時に人間の内側を見つめながら唯一無二の自由な画風を確立できたのには、多文化都市リヴォルノの風土が作用したに違いありません。この港町を訪れる旅は、エコール・ド・パリの中で最も孤独な光を放った画家を、より深く知る機会となるのです。

17世紀前半にメディチ家によって建設された新ヴェネツィアと呼ばれる地区。港から倉庫や家まで、船で到達できるように整備したものです。

リヴォルノはオペラ作曲家ピエトロ・マスカーニの出身地でもあります。海岸沿いには彼の名を冠した3万4千枚のタイルを敷き詰めたテラスが。

Casa Natale Amedeo Modigliani