イタリア料理店のテーブルでひときわ目を引く、藁に包まれた丸いガラス瓶「フィアスコFiasco」。中部トスカーナ地方で造られるキャンティ・ワインを象徴するボトルです。容器の主流がボルドー型やブルゴーニュ型といった縦長になった今もなお、イタリアでは敢えてフィアスコ入りワインでもてなす店が少なくありません。古き佳き時代を匂わせるその姿は、どのようにして生まれたのでしょうか。

「藁巻き」誕生の秘密
トスカーナにおけるガラス産業の歴史は14世紀にさかのぼります。特にシエナのヴァル・デルサ地方は、取水できる川、原料になる良質な土壌、そして炉で燃やす木材という、ガラスづくりに必要なすべてが揃っていたことで繁栄しました。
フィアスコは、イタリア文学の巨匠ボッカッチョが著した『デカメロン』(1350年頃)に登場することから、早くから身近なガラス製品であったことがうかがえます。
では、なぜ丸みを帯びた形状で、藁に巻かれているのでしょうか。答えは「吹きガラス」といわれる製法にありました。底を平坦にすることが難しく、不安定な丸型にせざるを得なかったのです。さらに薄く割れやすいという欠点もありました。そこで、藁や水草を巻き付けることで自立できるようにするとともに、輸送にも耐える強度を実現したのです。加えて遮光できることからワインの変質を抑えられるという効果も生みました。

家で、広場で編んでいた
1716年、トスカーナを治めていたメディチ家の当主コジモ3世は、キャンティ・ワインに関する勅令を公布しました。これは生産地域を明確にするとともに、地域以外で造られたワインに「キャンティ」の名称を使用することを禁じたものでした。結果として、キャンティ・ワインの品質と信頼が高まって市場が拡大し、フィアスコ生産も増加しました。
しかし、遠い地域に輸送されるようになると、たとえ藁や水草で補強されていても、その強度には限界があることが露呈しました。
それを解決したのは1860年、キャンティの老舗ワイナリー「メリーニ」が考案した強化ガラス製フィアスコでした。当初は機械でコルクを強く打ち込んでも割れないことを目指したものでしたが、結果として瓶の強度も向上できたのです。

そうしてガラス自体が強固になったあとも、ボトルには藁が残りました。もはやキャンティ・ワインのアイコンになっていたからです。
ただし当時の技術水準では巻き付け作業の機械化は難しく、手仕事に頼らざるを得ませんでした。それを支えたのはヴァル・デルサ地方の町、ポッジボンシの女性たちでした。
「フィアスカイア Fiascaia」または「インパリアトリーチェ Impagliatrice」と呼ばれた彼女たちは、ガラス工場から裸の瓶を手押し車に載せて持ち帰り、農作業や家事の合間に納屋や町の広場に集っては藁巻き作業に勤しみました。そして夕方には完成した瓶を工場へ納品する生活を続けていたのです。
女性たちの藁巻き仕事は内職の域を超え、家族の暮らしを支える大切な営みでした。なぜなら天候不順による農家の減収を補っただけでなく、ファシスト政権下において職を失いやすかった非党員世帯の家計も下支えしたからです。


今回の執筆にあたり、自分の母親がまさにフィアスカイアだったというマウロ・ミンギさんに話を聞きました。長年ポッジボンシの公立学校で校長を務めた彼は、80歳を越えた今も郷土史研究者として活躍しています。
彼が少年時代を過ごした第二次世界大戦中、ホッジボンシは2度にわたる連合軍の空爆に遭いました。町の8割近くが破壊され、マウロさんの自宅も父親の商店も壊滅的な被害を受けました。「多くの女性たちは、全半壊した家で藁巻きの仕事をしていました。私の母は、朝早くから広場にあった泉まで両手にバケツを下げて水を汲みに行っていました。その水に藁、ガマやヤナギ科の植物を浸し、柔らかくしてから瓶に巻き付けていたのです。冬場、母の手は凍えていたばかりか、植物に含まれるケイ酸でいつも荒れていました」
母親がエプロン姿で低い椅子に座り、瓶を両足の間に挟んで作業していた姿が今でも目に浮かぶというマウロさん。「屈んだ姿勢のまま長時間の作業が続いたため、彼女の背中は曲がっていました。にもかかわらず、仲間の女性たちとおしゃべりを楽しんだり、唄を歌いながら働いていたのを記憶しています」


彼女たちがいなければ
今日、藁巻き作業には効率的な機械が導入され、手作業はほぼ姿を消しました。しかし、ヴァル・デルサ地方の人々は、地域の発展を支えた女性たちの功績を大切に語り継いでいます。ポッジボンシの旧市街には、2021年に彼女たちを讃えるモニュメントが設置されました。

続く2025年には、壁画も街路に描かれました。世界に名を知られるフィアスコ。次にキャンティ・ワインを口にするとき、黙々と編み続けた名も無き女性たちの姿に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。


