「ちょいワル親父ジローラモと同じナポリ出身の映画監督」と聞くと、青い空や陽気な笑い声、マンマの愛情たっぷりのコメディを想像するかもしれない。だが、現代イタリア映画の至宝パオロ・ソレンティーノは、その「光」の裏側に潜む「影」を見つめ続けてきた監督だ。 『グレート・ビューティー/追憶のローマ』でアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、『Hand of God -神の手が触れた日-』ではヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を獲得。華やかな表層の奥に沈む老い、孤独、信仰、人間の弱さを、独自の映像美で浮かび上がらせてきた。
そして最新作『La grazia』では、ついに国家という巨大なテーマへ踏み込む。主人公はイタリア共和国大統領。国家の頂点に立つ男の心の揺らぎを通して、ソレンティーノはこれまで以上に深く「人間とは何か」を問いかけてくる。

大統領が直面する三つの決断『La grazia』
主人公は、任期の終わりを迎える大統領マリアーノ・デ・サンティス。演じるのは、ソレンティーノ作品のミューズであり分身のような存在でもある名優トニ・セルヴィッロだ。大統領としては「鉄筋コンクリート」の異名を持つほどの厳格さで知られ、法学者としての冷徹な理性も併せ持つ。だが、その揺るがない外面の奥には、亡き妻への執着と老いの影が、消えずに横たわっている。任期の終わりは、彼にとって人生の終わりの気配でもある。その不安は、理性では押しとどめられず、彼の内側をじわじわと侵食していく。
そんな彼の前に突きつけられるのが三つの決断だ。
決断1&2 : 「恩赦(La Grazia)」愛か、嘘か
殺人罪で服役する二人の受刑者に恩赦(Grazia)を与えるかどうか。恩赦とは、大統領が刑を軽減したり免除したりできる制度である。二人は「愛する人を救うために罪を犯した」と語るが、その言葉がどこまで真実なのかは分からない。彼は二人の語る「愛」や「動機」に耳を傾け、その中に潜む確かさと曖昧さを見極めようとする。しかし、この二人を救うべきかという判断は、単純な善悪では割り切れない。
決断3 : 「安楽死」 救済か、殺人か
イタリアで安楽死を合法化する法案に署名するかどうか。映画では「安楽死」と呼ばれているが、実際には本人が最終行為を行い、医師は準備を手伝う形で、法的には自殺幇助に近い。これは、自分の意思で人生の幕を引くことを「公的に認める」という極めて重い選択だ。マリアーノは自問する。「署名すれば殺人者。署名しなければ拷問者。」どちらを選んでも誰かの痛みに加担するという、逃げ場のない選択である。
「白か黒か」で割り切れない人生の空白
なぜ、彼はこれほどまでに苦悩するのか。それは彼が「世界は白か黒かで割り切れる」と信じてきた法学者だからだ。彼には、40年前に妻が不倫していたかもしれないという、「決して確かめられなかった真実」がある。事実を積み上げて生きてきた男が、人生で最も重要な事実だけを永遠に知ることができない。その「証明できない空白」が、明確な答えのない政治的決断を前にしたとき、影のように立ち上がるのだ。
大切なのは揺るぎない真実なのか、それとも証拠では測れない「思い」なのか。人は何を抱え、何を手放して死んでいくのか。映画は静かに問いかける。

信仰と尊厳のあいだで揺れるイタリアの安楽死問題
イタリアでは長く、カトリックの価値観が社会の土台だった。命は神から授かった恩寵であり、人が自分で終わらせることは「神の領域に踏み込むこと」と考えられてきた。とはいえ、時代は変わりつつある。命は自分のものであるという現代の考え方に加え、「苦しまずにdignità(尊厳)をもって最期を迎えたい」という声は年々大きくなり、特に若い世代では宗教観が揺れ始めている。
2019年に憲法裁判所は「条件付きでの自殺幇助は違法ではない」と判断した。きっかけは、事故で全身麻痺となったDJファーボが「自分の意思で最期を選ぶ権利」を求めた事件だ。

現在のイタリアでは、安楽死(医師が死を直接もたらす行為)と自殺幇助(医師が薬を処方し、最終的に本人が投与する行為)はどちらも原則禁止だが、自殺幇助のみ、非常に限定的に違法性が問われない場合があるという複雑な状態だ。
一方、オランダ、ベルギー、カナダ、スペインなどでは安楽死と自殺幇助の両方が合法化されている。スイスは安楽死は認められていないものの、自殺幇助のみが合法という独自の制度を持つ。これらの国々では「自分の最期は自分で決めたい」という価値観が広がり、宗教よりも個人の尊厳が重視されている。
イタリアはそのあいだで揺れている。都市部や若い世代では宗教観が薄れ、尊厳死を求める声が強まっている一方で、地方や年配の有権者にはいまもカトリックの価値観が根強い。政治家はこの層の支持を失うリスクを避けたいがために、安楽死の議論にはどうしても慎重にならざるを得ない。

国家は命にどこまで関与できるのか
イタリアは19世紀末に世界で最も早く死刑を廃止した国のひとつであり、その背景には18世紀の哲学者チェーザレ・ベッカリーア以来の「国家は命を奪うべきではない」という思想がある。しかし、この「国家は生死に手を触れないべきだ」という価値観は、苦痛の中で生き続ける人々にとっては、別の形の苦しみを生むこともある。
映画の中で死刑が語られるわけではないが、この国家と命の距離感は、マリアーノが向き合う恩赦と安楽死法案という決断を貫いている。国家が命に介入するたびに浮かび上がるのは、より根源的な「その命は誰のものなのか」という問いだ。

ソレンティーノが見つめた「命と赦しの哲学」
ソレンティーノは、国家の決断の奥に潜む人間の弱さと赦しを見つめる。
“Di chi sono i nostri giorni?”(私たちの日々は誰のものか?)
安楽死という終止符、恩赦という名の解放、そして砂時計のようにこぼれ落ちる老い。 これらはすべて、「人生の所有権」をめぐる闘争である。社会が引いた境界線の上で、人は自らの命を誰に捧げ、誰に許しを乞うのか。ソレンティーノは、その所有の不確かさを「美しき迷い」として描き出す。
映画はまた、「どこまで他者の苦しみに寄り添えるのか」という問いにも明確な答えを与えない。死を選ばせることが愛なのか、生き続けてほしいと願うことが愛なのか。どちらも正しく、どちらも簡単には肯定できない。ソレンティーノは結論を提示するのではなく、観客自身の経験や価値観の中でその問いと向き合う余白を残す。
『La grazia』が示すのは、人生は「正しさ」だけでは測れないという事実だ。安楽死も恩赦も方向は異なるが、どちらも国家と個人のあいだにある命の境界線を照らし出す。それはイタリアだけでなく、安楽死も自殺幇助も認められていない日本に生きる私たちにも深く響くテーマである。揺らぎや迷い、赦しの瞬間、それらはすべタイトルの意味する通り「恩寵」の異なる姿なのかもしれない。ソレンティーノは人間の不完全さの中にこそ救いと美しさが宿ることを静かに描き出している。