花の都フィレンツェや中世都市シエナの伝統料理にはアンチョビの塩漬けを使うレシピが見られます。海から遠く離れた内陸部なのに、なぜ海の恵みを隠し味に? その謎に迫ります。
メディチ家と自由港リヴォルノ
アンチョビをはじめとする魚の塩漬けは古代ローマ時代から存在していたといわれます。しかしトスカーナの内陸に魚が広く流通したのは16世紀後半になってからのことでした。背景には、かのメディチ家があります。彼らが支配するトスカーナ大公国は1571年、経済振興の一環として港町リヴォルノを自由港とします。続く1590年代に公布した、その名も「リヴォルノ法」では、外国人商人を含む移住者に対し、税の優遇や商業特権を与えました。この寛容な政策により、港は塩や魚介類をはじめ多様な商品を扱う港湾都市へと急成長を遂げました。
塩の潤沢な供給で長期保存が可能になった魚は、従来鮮魚の入手が困難だったフィレンツェをはじめとする内陸都市で活発に流通するようになりました。

保存食から「旨味の調味料」へ
塩漬けアンチョビに関していえば17世紀頃、リヴォルノから運河や馬車で定期的に内陸に運ぶ流通網が形成されたと考えられています。結果として新たなタンパク源としてトスカーナ料理に欠かせない存在となっていきました。
それまでのトスカーナの料理は豆や野菜を中心とした質素なもので、パンにさえ塩を加えないのが伝統でした。そうしたなかでアンチョビは保存食としての役目を超え、その塩味と深い旨味が料理に立体感をもたらす調味料にもなったのでした。
隠し味として使われている好例は、パセリやケッパーと合わせた「サルサ・ヴェルデ salsa verde」や、前菜の定番「鶏レバーのクロスティーニ crostini di fegato」です。いずれも、アンチョビはほんの少量にもかかわらず、深いコクを与えるのに貢献しています。


「チューブ入り」という革命
19世紀になるとアンチョビに革命的変化がもたらされます。その立役者は1865年、フィレンツェのバレーナ Balena社で、それまで樽や瓶詰めで流通していたアンチョビをチューブに詰める方法を考案しました。
メリットは大きなものでした。必要な分だけを絞り出せることで酸化しにくく、風味が長持ちするようになったのです。加えて、それまでのように料理する人が乳鉢で潰す手間も必要ありません。味が決まらないときにひと絞りするだけで旨味と香りを演出できることから、家庭だけでなくプロ料理人からも支持を集めるようになりました。
ちなみにBalenaとはイタリア語でクジラを意味します。一見海への敬意を感じさせるネーミングですが、実は創業者フランチェスコ・バレーナのファミリーネームです。

150年以上変わらぬ「本物の味」
バレーナのアンチョビ・ペーストが今日も高く評価されている理由は、徹底した伝統的製法にあります。原材料はアンチョビと塩のみ。最低6か月以上、ときには1年近く熟成させることで、熟成チーズにもたとえられるほど芳醇なアミノ酸由来の味わいが引き出されます。
近年は白トリュフ風味の新商品も発売されました。フライパンで、このペースト、無塩バター、パスタのゆで汁少々を混ぜて乳化させたあと、茹で上がったパスタに和えれば、アンチョビと芳醇なトリュフの香りが絡み合ったひと皿が瞬く間にできあがります。


以前私は、フィレンツェのアメリゴ・ヴェスプッチ空港に近いバレーナの本社を、所在地を頼りに訪ねてみたことがあります。閑静な住宅地の中に目立った看板もなく、ひっそりと佇んでいました。後日知ったのですが、同社は派手な宣伝をしないことで知られていたのでした。その謙虚さは、製品の質への揺るぎない自信と誠実さに感じられるとともに、バレーナが長く愛されてきた理由と確信したのでした。
メディチ家と港の開放、保存食としての普及、そしてパッケージングの変革…。トスカーナのアンチョビには、人々の営みが織りなした歴史が、静かに封じ込められているのです。