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大航海に挑んだサムライの軌跡を辿る。慶長遣欧使節団が上陸した街チヴィタヴェッキア

苦難の旅路を乗り越えて

イタリア半島にも眩しい太陽の季節がやってきました。テレビでは「まだ間に合う!地中海クルーズの旅」といったCMが流れ、人々はヴァカンスへの期待に心を踊らせています。首都ローマから西北西へ約80km、ティレニア海に面したチヴィタヴェッキアは、そうしたクルーズ用豪華客船の発着港として、イタリアでもっとも有名な港のひとつです。


Civitavecchiaとは「古代の街」の意。ローマ帝国時代には海軍の兵営があった伝えられる港は今日、地中海クルーズ船の拠点として世界中の船旅ファンに知られています。チヴィタヴェッキアを出発し、イタリアのジェノヴァ、フランス領コルシカ島、そしてスペイン領マヨルカ島などを周遊するプランが昨今人気とか。

歴史を遡ること400年前、日本人として初めてこの地を踏んだ男たちがいました。仙台藩士・支倉常長が率いる慶長遣欧使節団です。1613年、一行は仙台藩主伊達政宗の命により今日の宮城県仙台市月浦を出帆し、約7年をかけてメキシコ、スペイン、イタリアを旅しています。

彼らの目的には諸説ありますが、1つは当時スペイン領であったメキシコと通商条約の締結をスペイン国王と交渉すること、2つめは仙台領内でのキリスト教布教にあたり、ローマ教皇に宣教師の派遣を要請するためであったというのが有力です。加えて、使節団派遣の2年前には東北を巨大地震と津波が襲っていることから、震災からの復興に向けた新たな国づくりを目指す意味合いがあったとも考えられています。

スペインの地で洗礼を受けてキリスト教徒となった常長は、1615年10月18日に当時ローマ港と呼ばれていたチヴィタヴェッキアに上陸。その後、ローマ教皇パウロ5世との謁見を果たします。歓迎を受けた常長と随行員数名にはローマ市民権証書が与えられました。ところがローマ到着直前、日本では大坂夏の陣で豊臣家が滅び、幕府はキリスト教弾圧を強めるなど情勢は大きく変化していました。そうした背景から、結果的に慶長遣欧使節団に課されたミッションは実を結ぶこと無く終わってしまったのです。

国際交流の先駆者であったサムライ

それから長い歳月が流れましたが、常長が繋いだ日伊友好の縁は今日に続いています。その証のひとつは、港から徒歩で20分ほどのところにある「日本聖殉教者教会 Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi」です。常長が上陸する以前の1597年の長崎で、日本初のキリスト教殉教者となった26名を記念したものです。19世紀に建立されたもので、内部には日本人宗教画家・長谷川路可によるフレスコ画が描かれています。中央には珍しい着物姿の聖母マリア、左手には常長の姿も見つけることができます。


日本聖殉教者教会 Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi。1597年に長崎で殉教し、のちに聖人となった日本人26名を記念すべく1862年に献堂されものです。第二次世界大戦の空爆で甚大な被害を受けたため、1951年に現在の姿に再建されました。その際、内部のフレスコ画製作を手がけたのは日本人宗教画家・長谷川路可です。教会はフランシスコ会に属するため、ファサード前には聖フランチェスコの像が置かれています。

また旧市街のルイージ・カラマッタ広場の近くには、まさに支倉常長の像が建てられています。彼の出港地であった石巻市とチヴィタヴェッキア市は姉妹都市協定を締結しており、日本側から記念として贈られたものなのです。背後には常長が上陸した際に通過したとされる「リヴォルノ門」もあります。


旧市街のルイージ・カラマッタ広場近くに建つ支倉常長像。チヴィタヴェッキアと石巻市(慶長遣欧使節団の出港地)は姉妹都市関係にあり、記念に日本側から寄贈されたものです。常長が石巻を発ったのは、当時では老齢に差し掛かかった42歳。7年の旅を終えて日本に帰国した2年後、失意のうちに51歳で亡くなっています。

私が門をくぐりつつ大航海時代の歴史ロマンに思いを馳せていると、あるひとりの修道士に声をかけられました。挨拶を交わすと、彼が「気をつけて良い旅を!」と言いながらポケットから何やら取り出して私の手のひらに乗せます。見ると、それは聖母マリアが刻まれたメダイ(小さなメダル)でした。見知らぬ旅人を気遣う優しさが胸に沁みました。400年前、遥か遠い国からやってきたサムライたちも、同じ温もりでこの地の人々に迎え入れられたに違いありません。