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ヴェネチアにいちばん似合う設定|吉本ばななさんのイタリアエッセー

やむない仕事の事情のために、別れてまもない男性とヴェネチアで会うことになった。他にたくさん旅仲間がいたのだが、たまたまムラーノ島からの帰りの小さな渡し舟の中で彼と隣り合わせになった。

海は夕暮れのオレンジと白が混じったような不思議な色に沈み、ところどころについた明かりが鮮やかな光を放ち、その人と別れてしまったことがとてつもなく悲しく思えた。同じ景色を同じように見ていても、もうあのときとは違う。それをふたりの間でよい思い出として貯めていくことはなくなってしまったのだ。

ヴェネチアの路地は昼でも夜でも入り組んでいて、すぐ方向を見失ってしまう。河の上にいるときははっきりとわかっていたはずの方向が、路地を迷っているとさっぱりわからなくなる。

私たちには案内役をしてくれていたイタリア人の青年がいたからあまり迷わずに済んだのだが、あちこちで泣きそうになりながら、マップを持って自分のホテルを探している観光客を見かけてどきどきした。

その旅のもうひとつの問題は、合流してきたその青年の恋人が、ほんとうは二人で過ごすはずだった休暇に割り込んだ私たちを決して快く思っていなかったことであった。うっすら嫌がられている空気の中、少し険悪になったそのカップルの間で居心地が悪かった。居心地が悪いとますます景色の美しさがしみてくる。サン・マルコ広場はにぎやかなのにどこかうら淋しく、水の底に沈んでいきそうな雰囲気だった。

せっかくだから行っておこう、と訪れたハリーズ・バーのベリーニの薄い味を一生忘れないと思う。だれもがそれぞれの思いを抱き、悲しみを抱き、うまくかみあわずに過ごす。そんな奇妙な設定によく似合う街、忘れがたい美しさに満ちた水の匂いがする街。嫌いだけれど懐かしい、そんなところ。

イラスト:Rumi Hara https://www.rumihara.com/

【初出:この記事は2018年2月14日、初公開されました@AGARU ITALIA】