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「午前中感覚」の77年前―――イタリア解放記念日

4月25日はイタリアで「解放記念日」と呼ばれる国民の祝日です。移動祝日であるイースターを除くと、カレンダーでは1月6日以来久々のお休み。この頃から気温も心地良くなることから、一気にお出かけモードになります。


解放記念日は正式には「ラニヴェルサーリオ・デッラ・リベラツィオーネ・ディタリア L’anniversario della liberazione d’Italia」といいます。ローマでは空軍の曲技飛行隊「フレッチェ・トリコローリ」が、国旗色のカラースモークを噴射しながら飛ぶのが通例です(メイン写真)。無名戦士の墓の役割も果たしている「アルターレ・デッラ・パトリア」では、共和国大統領が献花を行います。各都市でも、市長らによってモニュメントに花が捧げられるが通例です。


ところで解放記念日の起源とは? 

名称を聞いて、第二次世界大戦との関係を想像する方は多いはず。しかし厳密には「大勝利を収めた日」ではありませんでした。そこで今回は歴史を少しひもとくとともに、今日もイタリアで感じる“あの時代”を綴ります。


決起の日だった

第二次世界大戦初期、枢軸国としてドイツと共に戦っていたイタリア王国ですが、1943年になると戦況が悪化。7月にはムッソリーニが首相を解任されます。

そうしたなか連合軍は、南部シチリア島に上陸を開始。続いてローマを制圧します。

1943年9月にイタリアは降伏。連合国側によってイタリアの休戦が発表され、ピエトロ・パドリオ首相による新政権が樹立されます。


対するドイツ軍はイタリアの降伏を裏切りとみなし、北部および中部を次々占領しながら武装解除していきました。加えて、彼らは逮捕されたムッソリーニを奪還。事実上彼らの傀儡政権(かいらいせいけん)であったイタリア社会共和国(RSI)を、北部ガルダ湖畔の町サロに建国しました。


そうした分断状況の中、イタリア各地ではどの政党にも与しない、反ファシズムの動きがパルチザン(イタリアではパルティジャーノ)運動となり、やがて内戦状態に至りました。

1943年9月8日に設立された反ファシスト委員会は、翌44年に設立された北イタリア国民解放委員会 Comitato di Liberazione Nazionale dell’Alta Italia(CLNAI)に発展します。彼らはドイツおよびファシズムに対抗するパルチザンを統合し、各地で闘争を繰り広げることになりました。


CLNAIのミラノ支部がラジオを通じて反乱を呼びかけたのが、1945年4月25日。同日には、ミラノがパルチザンたちによって解放されました。これこそが解放記念日の起源です。つまり、勝利を宣言した日ではなく、いわば最後の力を振り絞った日だったのです。結果としてRSIは消滅。4月28日には、パルチザンによってムッソリーニが処刑されました。


ガイオーレ・イン・キャンティ村に残されたムッソリーニのプロパガンダの写真です。
ガイオーレ・イン・キャンティ村に残されたムッソリーニのプロパガンダ。
「忠誠のために死ぬ覚悟ができない者は、忠誠を公言する資格はない」。
2018年4月に撮影。
連合軍のジオラマの写真です。
連合軍が「ジープ」とともにイタリアに上陸したときをイメージしたジオラマ。トリノ自動車博物館の常設展から。

あのとき「命をかけた人」が身近に

ところで以前、私が住む中部シエナ市の小学校を取材したときのことです。当日は、最終学年である5年生の社会科を見学することになりました。授業が始まると、内容は「パルチザンの軌跡」でした。先生は、何月何日に県内のどの地域でドイツ軍との戦闘が起きたかを説明。生徒たちはそれを聞きながら各自、白地図に経緯を記入していきます。続いて、市の北30キロメートルにある町が空襲を受けた様子がプロジェクターで映し出されると、それまで賑やかだった子どもたちは、急に静かに。そして授業の最後は、イタリアのパルチザンの愛唱歌であった「Bella ciao!(邦題:さらば恋人よ)」を合唱して終わりました。


「20世紀」の項目に入るか入らないかのうちに、学年末を迎えてしまう日本の社会科授業に慣れてきた私です。ときにデリケートな捉え方を要する近代の内容を、正面から取り上げていることに、ある意味衝撃を受けたものです。


シエナ県カンピーリア村に建つ建物の写真です。
シエナ県カンピーリア村で。第二次世界大戦中に、2000年代に入っても記されたVINCERE(勝つ)の文字。

筆者も実際に、パルチザンと関わりがあった数々の人に出会ってきました。

一人目は、中部ピサ県ヴォルテッラの元・町役場土木課職員のミーノさんです。1928年生まれの彼は「青年時代、パルチザンたちのために秘密裏に食糧を届ける役を任されていたよ」と教えてくれました。非戦闘員とはいえ、一歩間違えれば命を狙われる仕事を彼はこなしていたのでした。


本当にパルチザンとなった人の話を聞く機会にも恵まれました。コルネーリオ・マッフィオードさんは、1923年トリノ郊外に生まれました。15歳で航空隊に入隊すると、戦争中であったことから飛行機部品の設計に従事させられました。しかし大戦末期のある日、突如ドイツ軍によって工場が包囲されます。命がけで工場を脱出した彼は、対独パルチザンとなり、英国軍捕虜の救出にあたりました。


2人とも少し前天国に旅立ちましたが、同様に、生命をかけた体験をした人に会う機会が、イタリアでは今日でも身近にあります。


ミーノ・デミさんの写真です。
元・町役場職員のミーノ・デミさんは、当時少年だったが、パルチザンに食糧を運ぶ役を担いました。

イタリア的時間感覚ゆえに

ところでイタリア人と話していると、19世紀にこの国にも影響を及ぼしたナポレオン時代を、まるで昨日のことのように詳しく話す人に出会います。彼の時代に財産を没収されたといった歴史を持つ教会が街中に現存するばかりか、周囲を取り巻く建築物がもっと古い中世・ルネサンス建築であることもざらですから、当然といえば当然です。


特に私が住むトスカーナ地方でよく用いられる言い回しも、多分に時間感覚に影響します。文法で「遠過去」と呼ばれるそれは、北部などでは史実を語るときにしかあまり用いられません。対して、トスカーナでは日常会話でも多用されます。あえて日本語に訳せば「ナポレオン時代にあったとさ」だけでなく今朝の出来事を説明するにも「彼はバールで朝ごはんを食べたとさ」といったニュアンスを用いるのです。数世紀前と今日の昼前が同じ言葉使いも、過去と直近の境界を曖昧にします。


そうした特別な環境と時間感覚が漂うイタリア。ゆえに77年前のレジスタンス決起は、まさに午前中のような事件であり、決して遠い過去のことではないのです。


コルネーリオ・マッフィオード氏の写真です。
イタリアで長年自動車競技の世界に携わったコルネーリオ・マッフィオードさんは、パルチザンとして捕虜の救出に加わりました。