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福岡に住み唯一の「筑前琵琶」職人になったイタリア人|心の旅~Tizさんと行く日本の中のイタリアVol.4

イタリア文化のアンバサダー、ティツィアナさんがイタリアニタ(イタリアのスピリット)を探しに日本全国を旅する連載、「心の旅〜Tizさんと行く日本の中のイタリア」。第4回は、福岡県に住む「筑前琵琶」職人であるイタリア人のドリアーノ・スリスさんを訪ねました。


日本古来より親しまれている楽器・琵琶のひとつで絶滅の危機に瀕している「筑前琵琶」。ドリアーノさんは、その製作と修復ができる唯一の職人です。筑前琵琶職人・吉塚元三郎氏に弟子入りしたのは27歳の時。現在は「筑前琵琶」を守る活動を続けるとともに、イタリア会館・福岡の館長でもあります。


2022年に福岡市民文化活動功労賞を受賞し、福岡県指定無形文化財保持者に認定。さらにJASRAC音楽文化賞を受賞したドリアーノさんに、お話を伺いました。



──最近受賞した素晴らしいアワードについてお聞きしたいです。


ドリアーノ:まずなぜイタリア人が筑前琵琶の職人をやっているのかということからですね。少し昔のことですけど1974年に日本へ来た時に、たまたまラジオで流れてきた琵琶の音色を聴きました。


僕は歌手とギターをやっていましたが、ラジオで初めて琵琶の音色を聴いた時、弦楽器だけど全然違う、想像もつかないような楽器だと思いました。たまたま友達の会社に当時日本で唯一の琵琶を作る人(吉塚元三郎先生)の息子がいて、その関係で紹介されました。実際に見た感じも素晴らしい楽器でした。



イタリア人でありながら琵琶職人に

──琵琶の音色が好きというのがきっかけでしたが、どういう経緯で琵琶を作るようになったのですか?


ドリアーノ:吉塚先生の工房を見に行った時、先生は82歳でした。彼の話を聞いて、昔は作る人がたくさんいたけれど、今はもう先生一人になったと知りました。僕はびっくりして軽い気持ちでね、「僕に教えてくれませんか?」と言いました。彼は本気になって僕の目をじーっと見た後に、いきなり「明日から来なさい」とおっしゃって、そこから始まりました。


──福岡県の無形文化財で、日本で唯一の筑前琵琶職人だった吉塚元三郎さんと同じく、ドリアーノさんも何十年も経って先生と同じストーリーを辿りましたね。


ドリアーノ:今までひとりでした、結局ね。「教えてください」とやってきた日本人は何人もいたけれど、一番長かった人でも3か月ほどでしょうね。僕は毎日行って5年ほどやりましたけれど、それでも弟子とは言えないです。


──その先生は5年後に亡くなったんですか? 87歳くらいで?


ドリアーノ:いえ、91歳までご存命で、僕が弟子をやっていたのは5年ほどでした。その後は、自分は仕事をしていなかったから何か仕事をしないといけなかった。その時にイタリア会館、当時のイタリア文化センターを作って一人で始めました。結局、琵琶に関する注文は少ないし、たとえば自分が独立して琵琶を作ったら、吉塚さんのお客を取ってしまうのではないかと思いました。そんなことは絶対したくなかったのです。


──ビジネスにしようと考えなかったのはなぜ?


ドリアーノ:2つ理由がありました。一つはお客さんを取り合いたくなかったし、もう一つは、結局“自分が生きるための仕事”になってしまうと、なんでもやることになってしまうじゃない。例えばこの材料は高いからプラスティックでやってくださいってこともやらないといけない。だから僕はずーっと断っていました。


でも先生がいなくなってからは仕事がどんどん来たんですね。結局できる人が誰もいないから。


──ドリアーノさんもイタリア文化会館で忙しかったですし、だから琵琶のことは趣味の形で情熱を燃やしていたのですね。


ドリアーノ:これは失礼になるけれど、僕にとって本職は琵琶作り。そしてイタリア文化会館の方は趣味。逆ですけれど。



唯一無二の楽器、琵琶

──あなたと琵琶の関係を教えてください。


ドリアーノ:琵琶は奥が深いです。まずほかの楽器と違って同じ楽器はありません。ヴァイオリンや三味線など、どんな楽器でもパターンがあって工場で製造できます。どれも同じ大きさだから。琵琶は注文した人に合わせて、そして材料に合わせて作るからまったく同じものがありません。大きさもそれぞれ違ってきます。


──ドリアーノさんが作っている琵琶は特別なタイプですね?


ドリアーノ:新しい琵琶にもいろいろあって、進化してきた中でいちばん優れた、いちばん難しい琵琶が筑前琵琶です。だから筑前琵琶を作る人であればどんな琵琶も作れます。だけどほかの琵琶を作る人は筑前琵琶を作れないです。


──ほかの琵琶はどんな種類が?


ドリアーノ:東京の方は、薩摩から来ている薩摩琵琶。鶴田錦史だとか有名な人がたくさんいたんですけど。薩摩琵琶は「男」っていう感じですね。男がひく琵琶。筑前琵琶は女性がひく琵琶。


──いまドリアーノさんの弟子の半分は女性と聞きました。女性と男性では習いにどんな違いがありますか?


ドリアーノ:日本だけではなくて全世界的に、職人はだいたい男性というイメージですね。なぜかというと作るのに力がいるからだと私は思っているのですが、琵琶を作るのに力はいりません。もっと必要なのはデリカシー(繊細さ、優美さ)です。


──だから女性がうまくできるということですね。


ドリアーノ:たとえば木を削るときは、木をなでるように削るんですよ。力を入れない。そういうことは女性の方がピンとくる。男性と比べてノコギリを使うことが少ないでしょうから。男性は力があるからどんどん力を入れてしまいます。


──面白いですね。


ドリアーノ:だいたい3年続けば一通りという感じで琵琶が作れます。最初は部品作りから始まるんですね。最初から楽器の本体を作るのではなくてまず部品、部品、部品。最後に楽器と一緒に作る。僕はそう習いました。最初は少し嫌だったんです。早く本体を作りたかったんですけれども、やっぱり部品からしっかり作ることがとても大事です。全部一緒に鳴らす時にヘンな音だったら全部わかります。“ちょっと手抜きした”とか“ごまかした”とかね。


──ドリアーノさんはどんな木が好きですか?


ドリアーノ:琵琶だったら桑の木。ヨーロッパの桑とは違う。桑はもともと木を作る前に蚕の方がどんどん葉っぱを食べるでしょう。新しい葉っぱを食べるためにどんどん切るので木が大きくならない。だからそれは楽器にならない。楽器になるのは山にある完全な野生の桑の木です。


──ドリアーノさんは去年学校をスタートしていて、1年経って昨年ものすごく素敵な勲章をJASRACからもらいましたね。


ドリアーノ:無形文化財の特別文化の賞やいろんな賞をもらったけれど、ぼくははっきり言ってこんな年齢だしピンとこない。賞をもらったのはうれしいという思いは、いちばんにありますけれど。このことについて話すとき、僕は結構きついことを言うんです。琵琶がなんでこんな扱いの楽器になってしまったのか。たとえば中国だったら音楽大学で琵琶もヴァイオリンと同じレベルに入っています。若いの中にはヴァイオリンをやる人もいるし琵琶をやる人もいる。だけど日本はクラシックの楽器だったものが、結局、民族楽器のひとつになってしまった。そこに僕はすごく心が痛みます。


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──若い人は、ほかのクラシック楽器と同様に琵琶を学ばないのですね。


ドリアーノ:もうひとつは、一般の若い人は興味あっても値段が高くてなかなか買えないですね。自分が初めて聴いた時にすごく感動したのは、琵琶をまったく知らなかったから。昔の日本人はみんな琵琶を知っていたけれども、琵琶を作ってると言うと「うわぁ暗いな」って思われます。それは有名な『耳なし芳一』などのようにストーリーに暗いイメージがあったからですけど、今の若い人はそれをまったく知りません。僕と同じで真っさらな状態で聴くと、「いいな」ということに加えてどこか懐かしく感じるんだと思います。だから今はちょうどいい時じゃないかと思っています。今習う人が全国から9人出てきたのも結構うれしかったですね。去年、一昨年ぐらいまではずっと僕一人きりでしたからね。


日本でイタリアの良さを伝えたい

──福岡に住んで長い時間を日本で過ごしてきたドリアーノさんから見て、日本は自分の文化や伝統を新しく活用できますか?


ドリアーノ:自然はどの国でもきれいですね。ただ日本の場合は木の文化だから、結構木を伐採しますね。残念ながら。石の文化は残ります。イタリアはそのまま残っているから、もっときれいですね。僕はいつもみんなに言うけれど、「日本が好き」っていう言葉は、日本の街や日本のものなどではなくて結局、日本人が好き。九州の人は、日本人の中でも僕の性格に合います。もちろん、日本のいろんな所にいろんな人がいるけれども、だいたい僕は好き。



──何年に日本に来ましたか?


ドリアーノ:1947年生まれて、1974年に来ました。


──日本へ来て50年の中でイタリア会館を作って、イタリアの文化をもっと日本で伝える。それは大きなミッションでとても情熱的な仕事でしたね。


ドリアーノ:僕がやったことは全部、昔は「あり得ない」とみんなが言っていました。たとえば映画祭を作りました。1回で36本続けて映画を上映しました。その時に大使館から「アメリカでもそんなことできなかったのに。潰れるよ」って心配されたけれど、その時のべ7500人くらいのお客さんが来ました。昔は今と違って映画を簡単に観られませんでしたし、イタリアの映画にみんなものすごく興味がありました。僕は映画を通していろんなことを伝えようと考えました。


なぜ福岡にイタリア文化センターを作ったかというと、東京よりも九州のほうが少し田舎ですが、イタリアというとステレオタイプで「スパゲティ」とぱっと出てきます。イタリア好きな人に会ったら、たとえばファッションが好きなら、イタリアのファッションはすごいと、それしか知らない。音楽の人はイタリアの音楽すごい。イタリアの車すごい。イタリアの建築はすごい。みんなそれぞれの分野だけでイタリア全体の良さは知らなかった。僕がそれを伝えていきたいです。


──イタリアの中でもいろいろな文化があるので、映画を通して伝えることは大きな目的だったと思います。音楽もいろいろな素晴らしいイベントを作って、また違うイタリアのスピリットを伝えていましたね。それ以外にも、ドリアーノさんが上梓した『見て解るイタリア語』は今までになかったイタリア語の教科書でとてもブリリアントだと思います。


ドリアーノ:なぜイタリア語の本を作ったか。はっきり言って、僕はイタリア語の本を見て好きなものが一冊もなかったのです。イタリア語を教える時にテキストがいるけど、すべて使いたくなかった。言語学者は無知だと僕は感じました。なんでこんな面白くない文章で喩えを作るのか、もう信じられない。


それで自分で作りたくなったんですね。これまであった教科書と比べてみたら疑問だらけだったので、別のやり方で始めました。僕の本では、最初の授業を受ける時にみんな簡単な文章も作れるようになります。だから結局、暗記はだめ。会話と文法を区別してるもんね。会話は教えるものじゃない。会話は作るもの。どうやって会話を教えるのでしょうか? 自分の脳の中にある言いたいことは会話になるけれど、それは教えられない。だから日本語と同じように、文章を作る力をつけないといけない。作った文章をどんどん捨てなさいと教えています。捨てて捨てて、どんどん新しい文章を作ってそれで覚える。その文章だけを覚えるのではなくて。


──教えてきたたくさんの学生はみんな大人になって、友達としておつきあいが続いているとか。


ドリアーノ:教え子はたくさんイタリアにいるし、イタリアで子供ができた人もいます。


──このコミュニティを作ったのはドリアーノさんの情熱と力、ラブですね。やっぱりこれがないと強いコネクションは作れないから、ドリアーノにしかできなかったと思います。本当のダイナミックなイタリアを伝えてくれていることに感謝します。


ティツィアナさん“日本で初めての街”福岡の思い出

実は、今回の主人公・ドリアーノさんと福岡は、ティツィアナさんにとってとても思い出深い人であり、土地であると言います。ティツィアナさんが学生時代を過ごした愛する福岡の街とその思い出を語ります。


「私にとって福岡は、日本で最も美しく重要な都市の 1 つであるだけでなく、何よりも心の場所です。


今日はいつもの旅行プランのアドバイスではなく、私にとって初めて訪れた日本の都市、福岡に着いたときの重要な思い出をいくつか思い出してみたいと思います。当時、私は九州大学経済学部(修士課程)に留学のため、日本を初めて訪れました。


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1986 年当時、バブル全盛期の福岡の超高層ビル、豪華なデパート、中洲川端の歓楽街の瞬く光に心を打たれました。 ニューヨークよりも華やかで裕福でしたが、中国や韓国との貿易に開かれた港町であり、重要な文化の中心地である博多の魅力と歴史も保っていました。


福岡という街と留学中に出会った素晴らしい人々のおかげで、私は日本とアジアを心から愛しています。


大好きな九大の保護者の先生は、私を娘のように迎えてくれました。今でも彼の家族とはとても仲がいいです。 彼と私の仲間の学生のおかげで、私は中国と韓国との日本文化の深い絆を理解して、皆さんと一緒にラーメンを食べ、カラオケを歌うことも学びました。


大好きな茶道の先生のおかげで、抹茶や和菓子を愛することができました。そして、コミュニケーションや新しいことを学びたいという尽きることのない欲求を持っている日本の高齢者のエネルギーに感心しました。


大好きな剣道の師匠から、禅も義務と楽しみのバランスで表現されていると教えてもらいました。畳でハードで厳しい稽古をした後、先生たちと一緒にお酒を飲み、笑い、楽しい時間を過ごしました。


このインタビューの登場人物であるドリアーノさんは、私が日本に来ていちばん最初に出会ったイタリア人でした。学生時代、彼の素晴らしい家族と一緒に温泉を愛し、九州の美しさを分かり、日本を心に留めるイタリア人であることの意味を理解しました。


皆さん心から、grazie!」