ITALIANITYのテーマ「ピエモンテ特集」に合わせて、ピエモンテ州出身歌手の代表曲を2回に分けてご紹介する第2弾。
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プレイリスト収録曲詳細
1. Paolo Conte(パオロ・コンテ)
アスティ県出身1937年生まれで、イタリアで最も革新的なシンガーソングライターのひとり。しかも37歳までの職業は弁護士であったという異才。画家としても活動しています。ジャズ・ミュージシャン(ピアノ、トロンボーン、ヴィブラフォン)として音楽活動を始めた彼のシンガーソングライターとしての代表作のひとつが「Via con me(ヴィア・コン・メ / 意:僕と行こう)」(1981)で、サブタイトルはサビの“It’s wonderful(イッツ・ワンダフル)”です。幼少期を過ごしたムッソリーニ体制下では、アメリカ音楽とジャズが禁止されており、それに反発する両親の元に育ったことが、後の彼の音楽スタイルに大きな影響を与えたことは間違いないようです。
2. パオロ・コンテ「Sparring partner(スパーリング・パートナー / 意:練習相手)」(1984)
大人な雰囲気の楽曲。ジャズ・ミュージシャンとしての経験を経て、作曲家としても数々の名作を世に送り出したコンテ。その中でもっとも有名なのは現代でもなお、イタリア人なら皆歌えるという“第2の国歌”的な「Azzurro(アッズッロ)」(1968 / 歌唱:アドリアーノ・チェレンターノ)を作曲したことです。それほどの作品でありながら、同曲をコンテがセルフカヴァーするのはライヴの場だけ、しかもジャズ調に歌い崩してオリジナルとは全く異なるヴァージョンで披露するという徹底ぶりです。
3. Luigi Tenco(ルイジ・テンコ)
アレッサンドリア県出身(1938-1967)の不世出のシンガーソングライター。60年代にイタリア音楽の革命を目指した“ジェノヴァ派”と呼ばれるシンガーソングライターのひとりであるものの、スター歌手に埋もれがちで生前に十分な評価を得られずに、サンレモ音楽祭1967出場中に予選落ちした晩、旧態然のままの評価しかしない世の中の風潮に抗議する遺書を残して自殺(29歳没)。彼の生命を賭けた抗議は成功し、死後にようやく評価が追いついたという人物。
「Mi sono innamorato di te(ミ・ソノ・インナモラート・ディ・テ / 意:僕は君に恋をした)」(1962)は、甘いタイトルではあるものの、一聴すれば判る通りの暗い雰囲気の歌。心の中の暗部を隠さずに表現する彼の詞の特徴が出ていて、歌いだしから“僕は君に恋をした。なぜなら他にするべきことがなかったから。昼は誰かに会いたくて、夜は夢見るものが欲しかったから”と。こんなことは普通、思ったとしてもクチに出さないことなのに。
4. ルイジ・テンコ「Il mio regno(イル・ミオ・レーニョ / 意:僕の王国)」(1961)
ルイジ・テンコの作品にしては珍しく、希望的な明るさを感じさせる曲調なのは、夢の世界を歌っているから。王国には王女さまとたったひとりの兵士がいて・・・ でも歌詞の動詞がほぼ過去形なのもポイント。なぜ夢の世界が過去形になったのでしょうか? キーとなるフレーズは“Se non m’avessero detto mai(セ・ノン・マヴェッセロ・デット・マイ / 意:もし(皆が)僕に言わなかったなら)”です。周囲の人々にそんなおとぎ話なんて現実じゃない・・・と言われてしまったのですね。
5. Donatello(ドナテッロ)
アレッサンドリア県出身1947年生まれ。キーボード奏者&ヴォーカリストとしてバンド活動を始め、ギターも習得。スター歌手ジャンニ・モランディのバンドのギタリストに選出されたのを経て、69年にソロデビュー。サンレモ音楽祭1970に「Io mi fermo qui(イオ・ミ・フェルモ・クイ / 意:僕はここに留まる)」を作曲し、歌手としても出場。同曲のパートナーを務めたバンドDik Dik(ディク・ディク)の代表曲にもなるほどの成功を納め、Dik Dikのアルバムのレコーディングにギタリストとして呼ばれるなどの活躍を果たします。
6. ドナテッロ「Malattia d’amore / マラッティア・ダモーレ(意:恋の病)」(1970)
青年期に誰もが体験する重要な現象を歌った不朽の歌として、今も聞かれ続けている楽曲です。
7. Nuovi Angeli(ヌオーヴィ・アンジェリ)
ピエモンテ州出身者が集まったビート&ポップバンドで、代表曲はこの「Donna felicità(ドンナ・フェリチタ / 意:女・幸福)」(1971)。作曲者のひとりは後にソロデビューし、偉大なシンガーソングライターとなるRoberto Vecchioni(ロベルト・ヴェッキォーニ)。
8. ヌオーヴィ・アンジェリ「Anna da dimenticare(アンナ・ダ・ディメンティカーレ / 意:忘れるべきアンナ)」(1973)
主に70年代にヒット曲を放ったヌオーヴィ・アンジェリ(意:新しい天使たち)は、活動休止や再結成を繰り返しながら今も活動を続けています。この曲も70年代に放ったヒット曲のひとつ。
9. Cosmo(コズモ)
トリノ県出身1982年生まれのシンガーソングライター。「Sei la mia città(セイ・ラ・ミア・チッタ / 意:君は我が街)」(2017)は、他者や我が家への愛を“故郷の街”と比喩したシンプルながらも心に刺さる表現でスマッシュヒットしました。
10. コズモ「L’ultima festa(ルルティマ・フェスタ / 意:最後のフェスタ)」(2016)
コズモは2002年にエレポップのインディーバンドDrink to Meを結成し、ヴォーカル&シンセ奏者として活動し、2012にはソロとしてもデビュー。Drink to Meの活動も続けています。
11. Perturbazione(ペルトゥルバツィオーネ)
トリノ出身者で1988年に結成されたインディー・ロックバンドで、1998年にアルバムデビュー。サンレモ音楽祭2014に初出場し、「L’unica(ルニカ / 意:唯一の女性)」で堂々の6位入賞し、ルーチォ・ダッラ賞(記者クラブ賞)も受賞しました。結成からこの年までは女性チェロ奏者を加えた編成だったので、チェロの音色があちこちに感じ取れるのも魅力的な楽曲。
12. ペルトゥルバツィオーネ「Buongiorno buonafortuna(ブォンジョルノ・ブォナフォルトゥーナ / 意:こんにちは・幸運あれ)」(2010)
“混乱”を意味する不思議なバンド名ですが、この曲のようにマンドリンを積極的に取り入れたり、前出のようにチェロの音色を活かすスタイルを“混乱”と自虐的に名乗っているのかもしれませんね。
13. Il Castello di Atlante(イル・カステッロ・ディ・アトランテ)
ヴェルチェッリ県で1974年に結成されたプログレッシヴ・ロックバンドで、現在も活動中。バンド名の意味は“アトラス(男像柱)でできた城”。「Ilmarinen forges the sampo(イルマリネンはサンポを鍛える)」(2004)はフィンランドに伝わる民族叙事詩カレワラに登場する鍛冶屋イルマリネンがサンポ(=持つ者に幸福をもたらす神秘的なもの)を鋳造したという伝説を歌っています。
14. イル・カステッロ・ディ・アトランテ「Il vecchio giovane(イル・ヴェッキオ・ジョーヴァネ / 年老いた若者)」(2016)
結成当時からヴァイオリン奏者を加え、2010年以降はツインキーボードの6人編成、さらには2人がヴォーカルを取るバンドならではのサウンドが堪能できる楽曲。
15. Yo Yo Mundi(ヨー・ヨー・ムンディ)
アレッサンドリア県で1988年結成のコンバットフォーク・グループ。「Freccia Vallona(フレッチャ・ヴァッローナ)」(1988)は彼らが手掛けた最初の楽曲で、ベルギーのワロン地域で行われるプロ自転車ロードレース“フレッシュ・ワロンヌ”を題材にした楽曲で、ピエモンテ州とリグーリア州にまたがるボルミダ渓谷の汚染に抗議する集会で披露されました。彼らが信条とする、「地元とルーツの絆」、「政治的主張」、「環境保護」が早くもこのスポーツの歌の中に込められています。
16. ヨー・ヨー・ムンディ「L’ultimo testimone(ルルティモ・テスティモーネ / 意:最後の証人)」(2006)
EP盤のみでリリースされた楽曲。深い闇の中からインクで手紙を書く、という歌詞が歌われています。
17. Africa unite(アフリカ・ユナイト)
1981年にトリノ県で結成されたバンドで、レゲエの父ボブ・マーリーの同名の楽曲のタイトルをそのままグループ名にしている通り、イタリアを代表するレゲエバンドです。「La teoria(ラ・テオリア / 意:理論)」(2015)
18. アフリカ・ユナイト「Riflessioni(リフレッショーニ / 意:反省)」(2015)
90年代になると、世界的なワールドミュージックブームの中、彼らの名前は日本でも渋谷系ムーヴメントの一環で一部の尖った層にその名が知られるようになりました。
19. Aeroplanitaliani(アエロプラーニタリアーニ)
ヴェルチェッリ県で結成された男女ツインヴォーカルのラップ系ポップロックバンド。1992年アルバムデビュー。「Zitti zitti [Il silenzio è d’oro](ジッティ・ジッティ[イル・シレンツィオ・エ・ドーロ] / 意:静かに静かに [沈黙は金])」(1992)でサンレモ音楽祭に初出場曲し、いきなり栄誉ある批評家賞を受賞しています。
20. アエロプラーニタリアーニ「Bella(ベッラ / 意:美女)」(2007)
バンド名は“イタリアの飛行機たち”という変わった意味で、ドラム、ベース、ギター、キーボードという編成にトランペット奏者(ヴァスコ・ロッシのバックも務めている)と男女ツインヴォーカルの7人編成という大所帯。結成30周年を迎えるものの、オリジナルアルバムはまだ3枚という寡作のバンド。
21. Shade(シャーデー)
トリノ出身のラッパー1987年生まれ。「Senza farlo apposta(センツァ・ファルロ・アッポスタ / 意:わざとそれをせず)」はサンレモ音楽祭2019出場曲で、若手女性歌手Federica Carta(フェデリカ・カルタ)とのデュエット曲(共に初出場)。
22. シャーデー「La hit dell’estate(ラ・イット・デッレスターテ / 意:夏のヒット)」(2019)
若手歌手にたくさんのヒット曲を提供している女性シンガーソングライターFederica Abbate(フェデリカ・アッバーテ)らとの共作曲で、チャート13位まで登り、タイトル通りのヒット曲となりました。
23. Eiffel 65(エイッフェル・シックスティファイヴ)
トリノで結成されたユーロダンスグループ。1999年にアルバムデビュー。キーボード奏者、DJ、ヴォーカリストという3人編成。DJはソロDJとしても著名なGabry Ponte(ガブリィ・ポンテ)。「Viaggia insieme a me(ヴィアッジャーレ・インシェーメ・ア・メ / 意:僕と一緒に旅をする)」(2003)は、キーボードのMaury(モーリー)が1年後に生まれる息子の為に書いた楽曲で、とても大事な曲とのことです。
24. エイッフェル・シックスティファイヴ「Quelli che non hanno età(クェッリ・ケ・ノン・アンノ・エタ / 意:年齢のないやつら)(2003)
彼らのサンレモ音楽祭初出場曲。オーケストラ入りで演奏された音楽祭では順位が低い結果となりましたが、その夏、ガブリ・ポンテがDJの手腕を発揮してリミックスし、ヒット曲に変えました。
25. Linea 77(リネア・セッタンタセッテ)
1993年にトリノで結成されたメタルロックバンド。「AK77」(2019)は、人気ラッパーSalmo(サルモ)とDJ Slaitが参加しており、歌詞にも聴き取れる通り、映画『フルメタルジャケット』(1987 / スタンリー・キューブリック監督)へのオマージュとなっています。
26. リネア・セッタンタセッテ「Fantasma(ファンタズマ / 意:幽霊)」(2003)
3rdアルバム『Numb(意:麻痺)』の先行シングルとなった楽曲です。
27. Fratelli di Soledad(フラテッリ・ディ・ソレダ)
1989年にトリノで結成されたスカバンド。バンド名の由来は、共産主義者ジョージ・ジャクソン(米 / 1941-1971)が獄中から革命運動を呼び掛けた手記『ソルダッド・ブラザー』から取られています。1stアルバムの冒頭に収録され、自らのバンド名を掲げた楽曲「Fratelli di Soledad」(1992)は、文字通り、彼らの看板曲です。
28. フラテッリ・ディ・ソレダ「Gridalo Forte(グリーダロ・フォルテ / 意:それを強く叫べ)」(1994)
2ndアルバムのタイトル曲。同アルバムは同じピエモンテ州出身のアフリカ・ユナイトや第1弾で紹介したスブソニカ、マウ・マウらが参加しています。
29. Duo Fasano(ドゥオ・ファザーノ)
トリノ出身の双子姉妹デュオで1924年生まれ(姉は1996年没、妹は2004年没)。1950年代にサンレモ音楽祭出場などで大活躍しました。「Casetta in Canadà(カゼッタ・ディ・カナダ / 意:カナダの小さな家)」(1957)は同年のサンレモ音楽祭で4位入賞した楽曲で、男性歌手Gino Latilla(ジーノ・ラティッラ)と女性歌手Carla Boni(カルラ・ボーニ)を加えた4人編成で歌っています。歌詞の内容や曲調から子供向け楽曲としても定番曲となっています。
30. ドゥオ・ファザーノ「Aveva un bavero(アヴェーヴァ・ウン・バーヴェロ / 意:襟があった)」(1954)
サンレモ音楽祭1954で6位入賞。パートナーのQuartetto Cetra(クァルテット・チェトラ)ヴァージョンの方はチャート3位に入るヒット。ドゥオ・ファザーノはサンレモ音楽祭第1回から参加したレジェンドながら、上位入賞しなかったところが逆にツウ好み。
31. Tonina Torrielli(トニーナ・トッリエッリ)
アレッサンドリア県出身1934年生まれ。サンレモ音楽祭1956に初出場し惜しくも2位となったのが「Amami se vuoi(アーマミ・セ・ヴォイ / 意:よかったら私を愛して)」。彼女はこの曲を引っ提げて、第1回ユーロヴィジョン・ソング・コンテストの記念すべき最初のイタリア代表参加者となりました。
32. トニーナ・トッリエッリ「L’edera(レーデラ / 意:ツタ)」
サンレモ音楽祭1958で2位となった楽曲で、英歌手Cliff Richard(クリフ・リチャード)が英語でカヴァーして、国際的にもヒットした楽曲となりました。ちなみに同年のサンレモ音楽祭は米大陸を席巻しグラミー賞を獲得するあの「ヴォラーレ」ですから、1位&2位の楽曲が国際的なヒット曲となり、これをきっかけに“世界のサンレモ”としてイタリアが世界のヒット曲の発信地となるカンツォーネ黄金時代が始まりました。