今日、さまざまなイタリア人指揮者が世界各地で活躍しています。日本でも2016年からアンドレア・バッティストーニが東京フィルで、2022年からファビオ・ルイージがN響で、いずれも首席指揮者としてタクトを振っています。いっぽう19世紀末、イタリアから世界に羽ばたいた伝説のオーケストラ指揮者といえば、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)です。彼の生家を北部パルマに訪ねました。
レジェンドの出発点とは思えない
かつて音大で学んだ私の正直な心情を記せば、トスカニーニが名指揮者ということは認識していても、特別な親近感を抱けませんでした。第一は先輩世代が、たびたび闇雲に「偉大」と持ち上げていたことへの反発です。もうひとつは、常に語られてきた彼の気性です。トスカニーニは練習中かなり気性が荒く、思い通りの音がオーケストラから引き出せないと、英語やイタリア語、ときにパルマ方言で怒鳴り散らし、団員とたびたび険悪な雰囲気に陥ったと伝えられています。臆病な私などは、彼のリハーサルを記録した録音を聞くだけで萎縮してしまいました。たとえ出来上がった演奏が素晴らしくとも、冷静かつ淡々と練習を積み上げてゆく指揮者のほうが好みだったのです。したがって一般のトスカニーニ礼賛からは一歩引いて、歴史上の人物として捉えていたのが正直なところです。
エミリア-ロマーニャ地方パルマ。「オルトレトレンテ」と呼ばれる地区は、川の対岸の城館「パラッツォ・デッラ・ピロッタ」などがあるエリアとは対照的に、庶民の小さな家が立ち並ぶ街区です。トスカニーニの生家は、その一角に紛れるようにある3階建ての家です。

館員のエレオノーラ・ベナッシさんは説明します。「アルトゥーロ・トスカニーニは、仕立て師の父と裁縫師の母のもと、1867年3月、この家で生まれました」
私が小さな台所を眺めていると、エレオノーラさんは「これは共同の台所でした」と教えてくれました。共同とは?
「トスカニーニ家は、建物の2階に5人家族で住んでいました。ただし上階には別の家族が住んでいて、台所や居間は皆で使っていたのです」
レジェンド的人物の出発点としては、想像をはるかに超える質素さです。エレオノーラさんの解説は、さらに続きました。「一家の家計はきわめて苦しいものでした。そのため、彼が生まれた数ヶ月後、家賃が払えず、市内の他所に引っ越しを余儀なくされています」

突如つかんだ成功と、時代ゆえの苦難
ただしトスカニーニは早くから音楽の才能に目覚め、9歳で現在のパルマ音楽院の前身である王立音楽院に入学。1885年にチェロと作曲双方を主席で卒業しました。その彼に最初の幸運をもたらしたのは、チェロ奏者として採用された旅回りオペラ劇団での事件でした。南米リオデジャネイロ公演の際、急きょ代役を務めた「アイーダ」の指揮が大好評となり、それは故郷イタリアにも伝わったのです。
その後1895年には、トリノ・レージョ劇場の首席指揮者に就任。1898年にはミラノ・スカラ座の同じく首席指揮者に就き、実績を着々と積み上げてゆきます。特筆すべきはヴェルディ、プッチーニが存命だった時代、彼らの作品を演奏したことです。とくにプッチーニ作品は「ラ・ボエーム」「西部の娘」の初演を担当。また「トゥーランドット」は作曲家の死後となりましたが、同様に初演を行っています。ピアノが置かれた部屋の周囲には、そうした作曲家や演奏家との交流を示す、さまざまな絵画やゆかりの品が展示されています。
いっぽうヴェルディ、プッチーニとともにトスカニーニが好んで演奏したリヒャルト・ワーグナーは、彼が16歳のとき没しています。ただし後年、ワーグナーゆかりのバイロイト音楽祭でタクトを握ります。エレオノーラさんがひとつの引き出しを開けると、音符が記された書簡が。「これはリヒャルト・ワーグナーが作曲した『パルジファル』の一節を次女のエヴァ・ワーグナーが写譜し、トスカニーニに送った手紙です」


やがてトスカニーニは苦難の時代を迎えます。エレオノーラさんの解説は続きます。
「1906年、39歳の年に次男ジョルジョを6歳で失います」
政治の波にも巻き込まれてゆきます。「彼は1919年、 ミラノ議会選挙でベニート・ムッソリーニ率いるファシスト組織の候補者名簿に名を連ねます。彼らの初期の精神に共鳴したからでした」
しかし2年後、ムッソリーニがクーデター「ローマ進軍」で政権奪取に成功したのを機会に、トスカニーニはファシズムから距離を置きます。もともと学生歌でありながらファシスト党歌となってしまった「ジョヴィネッツァ」の演奏を拒否したこともありました。
「トスカニーニは『専制君主や独裁者がいる場所で、私は仕事ができない』と言っていました。政権に屈し、支持してまで指揮することを善しとしなかったのです」
そこでたびたび比較されるのが、同時代のドイツ人指揮者フルトヴェングラーです。「彼はナチス第三帝国の時代も演奏し続けました。支配や暴政にもかかわらず、自由に音楽を演奏し続けることを選択したのです。2人の対比は、きわめて興味深いものです」
トスカニーニはスカラ座を辞任し、ドイツ・バイロイト音楽祭も拒否。さらにナチスの影響が及び始めたオーストリアのザルツブルク音楽祭も辞退します。
今日トスカニーニの生家には、ユダヤ系の来館者が少なくないといいます。それには彼の娘ヴァンダがユダヤ系ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツと1933年に結婚していた以上に、大きな理由があります。トスカニーニは、ドイツから逃れてきた演奏家たちのために1936年結成されたパレスチナ管弦楽団において、第1回演奏会の指揮を行ないました。前述したピアノの部屋の一角には、12歳年下のユダヤ人理論物理学者で、楽団設立を支援したアルベルト・アインシュタインから届いた書簡が飾られています。そこにはこう記されています。「あなたはファシスト犯罪者との闘いにおいて自分自身の立場を明らかにしました。ファシストの犯罪者との闘いで、最高の品格を持つ人間として」。トスカニーニのそうした姿勢が、現在でも高く評価されているのです。


NYから思いを馳せた故郷
トスカニーニは次第に活動の場をアメリカに移します。1937年にはアメリカのNBCラジオがトスカニーニを中心に据えた「NBC交響楽団」を結成。以後中断期間はあったものの、この世を去る3年前である1954年まで彼とNBC響の関係は続きました。
NBCは第二次世界大戦後も数多くトスカニーニの演奏を録音しているばかりか、一部は録画も行われています。おかげで彼の演奏は今日でも動画配信サイトを通じて接することができます。
ちなみにこの執筆を機会に調べてわかったのは、トスカニーニが指揮するNBC響を放送するラジオ番組「シンフォニー・アワー」の提供が、今日まで存在する自動車メーカー、ゼネラルモーターズだったことです。こうした今日まで続く放送局やメディアとのつながりは、さらに彼が私たちからけっして遠い時代の人物ではないことを感じさせます。

トスカニーニが紡ぎ出す音色は極めて重厚です。同じ曲でもドイツ生まれのフルトヴェングラーが戦争中に残した録音よりもドイツ的なのが興味深いところです。とくにワーグナーは、過剰ともいえるダイナミックな解釈が多い今日、トスカニーニの冷静な演奏は逆に新鮮です。思えば、収録当時は終戦からまだ僅か。すべての芸術領域で闇雲といっても過言ではないほど新しい表現方法を摸索していた時代です。そうしたなかにあって、作品誕生から遠くない時代を知るトスカニーニは、過度なエモーションに傾倒しがちなオーケストラ団員たちにブレーキをかけるべく、たびたび苦悩し不機嫌になっていたとも私は考えます。
繰り返しになりますが、彼はヴェルディ、プッチーニといった大作曲家と同じ時代を生きるとともに、今日でも鑑賞できる媒体にその名演を残してくれました。89歳という長い生涯を全うしたおかげで、まさに時代の橋渡し役となったのです。

ふたたびエレオノーラさんによると、トスカニーニは成功してニューヨークに住むようになってからも、パルマの生家を常に懐かしんでいたといいます。そこで死後である1961年に彼の子どもたちが買い取り、1967年に市に寄贈したことで今日に至っています。
この小さな館の訪問で、伝説の指揮者との距離が縮まるばかりか、あたかも同時代を生きたかのような錯覚にすら襲われるのは、私だけではないはずです。


Museo casa natale Arturo Toscanini
Borgo Rodolfo Tanzi 13
43125 Parma
https://www.museotoscanini.it/