CULTURE

CULTURE

ロンバルディア州出身歌手特集!(第2弾)

11月・12月のITALIANITYのテーマ「ロンバルディア特集」に合わせて、ロンバルディア州出身歌手の代表曲をご紹介する第2弾。


ロンバルディア州出身歌手特集!
CULTURE

ロンバルディア州出身歌手特集! ロンバルディア州出身歌手特集!

よしおアントニオ / 2021.12.15


ロンバルディア州の位置と県
ロンバルディア州の位置と県

プレイリスト収録曲詳

1. Adriano Celentano(アドリァーノ・チェレンターノ)
ミラノ出身1938年生まれ。50年代の終わり頃にデビュー以来、常にトップスターとしてイタリア音楽界を牽引してきた首領(ドン)。日本でも60年代に「2万4千回のキッス(24mila baci)」などが日本語でカヴァーされたので有名になりましたが、前出の通り、第一線で活躍し続けて来たことを感じていただくために、円熟期に入った1999年のアルバムから、「L’emozione non ha voce(レモツィォーネ・ノン・ア・ヴォーチェ / 意:感情には声が無い)」を。


この時期からチェレンターノに楽曲を提供し始め、大作曲家と目されるようになるGianni Bella(ジァンニ・ベッラ)が作曲。Lucio Battisti(ルーチォ・バッティスティ)とのコンビで今日のイタリア音楽を決定づけた偉大なMogol(モゴール)が作詞。Pooh(プー)などの国民的バンドを手掛けたFio Zanotti(フィオ・ザノッティ)が編曲と、鉄壁の態勢の制作陣で創られた楽曲であることが聴きとれるはず。


2. アドリァーノ・チェレンターノGelosia(ジェロジア / 意:嫉妬)」(1999)
21世紀以降も名作アルバムが続いたチェレンターノですが、Spotifyには残念ながら登録がありませんので、前曲同様1999年のアルバム収録曲を。もちろん、前曲と同じ制作陣が手掛けています。


3. Enzo Jannacci(エンツォ・ヤンナッチ)
ミラノ出身1935-2013のシンガーソングライター。前出のチェレンターノのバンドのピアニストとして、イタリアで最初にロックを演奏したミュージシャンのひとりで、後に戦後のイタリア音楽界を牽引したひとりと目される偉大なシンガーソングライターとなりました。彼は単に音楽家であるだけでなく、心臓外科医として68歳まで現役の医師として活動したことも驚愕のキャリアです。


代表曲「Vengo anch’io. No, tu no(ヴェンゴ・アンキオ。ノー、トゥ・ノー / 意:僕も行くよ。いや、君はダメだ)」(1967)は、おどけた雰囲気で歌われる楽曲ですが、実はシリアスな内容で、社会から排除され、自由な社会参加が許されない人々を歌っています。


4. エンツォ・ヤンナッチHo visto un re(オ・ヴィスト・ウン・レ / 意:王様に謁見した)」(1968)
後にノーベル文学賞を受賞する劇作家Dario Fo(ダリオ・フォ / 1926-2016 / 州北西部ヴァレーゼ県出身)が作詞した楽曲です(前出の楽曲もダリオ・フォが捕作詞しています)。ダリオ・フォや俳優Paolo Rossi(パオロ・ロッシ)と共に3人で歌われた、このテイクが一番有名です。常に人々から搾取して私腹を肥やす強権を持つ人々を皮肉った歌詞のため、同年のカンツォニッシマからエントリーを拒否されたという逸話も残っています。


5. Giorgio Gaber(ジョルジョ・ガーベル)
ミラノ出身1939-2003のシンガーソングライター。前出のチェレンターノのバンドのギタリストとして、イタリアで最初にロックを演奏したミュージシャンのひとり。劇場でおしゃべりを交えながら音楽を披露するスタイルを得意としていたため、彼の作風は“テアトロ・カンツォーネ”と呼ばれるようになりました。「La libertà(ラ・リヴェルタ)」(1972)は彼の代表曲のひとつ。



6. ジョルジョ・ガーベルDestra – Sinistra(デストラ = シニストラ / 右翼 = 左翼)」(1994)
ファンクのキーでアレンジされた楽曲。政界の右翼と左翼をモチーフにしていますが、両者の違いなどに焦点を当てるのではなく、イデオロギーに当てはまらずにいる人々を揶揄しているように感じられます。


7. Roby Facchinetti(ロビー・ファッキネッティ)
州中央部ベルガモ出身1944年生まれのシンガーソングライター。イタリア音楽史に最も大きな足跡を残したバンドPooh(プー)のキーボード奏者にしてメインコンポーザーとして、数多の作品を手掛けた人物で、50年に渡ったPoohの活動を終えてソロとなり、悠々自適な活動を続けています。
Rinascerò rinascerai(リナッシェロ・リナッシェライ / 意:僕は生まれ変わり、君は生まれ変わる)」(2020)は、ヨーロッパにおけるコロナ禍の中心地となった故郷ベルガモの惨状を目にして、居たたまれない気持ちとなり一気に書き下ろした楽曲で、意図せずSNSで拡散されて国際的に知られるようになった楽曲です。


コロナ禍のイタリア発・世界的注目曲とその作詞者の訃報
CULTURE

コロナ禍のイタリア発・世界的注目曲とその作詞者の訃報 コロナ禍のイタリア発・世界的注目曲とその作詞者の...

よしおアントニオ / 2021.01.08


8. Francesco Facchinetti(フランチェスコ・ファッキネッティ)
ミラノ出身1980年生まれ。前出のロビー・ファッキネッティの2人目の妻の息子で、ラッパーとしてデビュー後、歌手活動を続けながら、今ではTV司会やショービジネスの仕掛け人としての活動がメインとなった人物です。「Vivere normale(ヴィーヴェレ・ノルマーレ / 意:普通の生き方)」(2007)は同年のサンレモ音楽祭出場曲で、待望の父子デュエットで披露されました。


9. Bluvertigo(ブルーヴェルティゴ)
モンツァで結成されたオルタナ系ニュー・ウエイヴ・バンドで、1995年にメジャーデビューですが、その起源は1984年まで遡るそうです。特に90年代には“とんがった”層からカルト的人気を集めるバンドとなりました。99年に活動停止後、何度かの再結成があり、現在も活動中です。「L’assenzio [The Power of Nothing](アブサン [無の力] )」(2001)はサンレモ音楽祭2001出場曲。アブサンとはアルコール度数が高いリキュールの名前ですが、楽曲制作に使用されたシンセサイザー用のソフトの名前でもあります。制作されたMVには、歌詞にも引用されたFranco Battiato(フランンコ・バッティアート)が出演しているのも見逃せません!


10. Morgan(モルガン)
ミラノ出身1972年生まれのシンガーソングライター。前出のブルーヴェルティゴのフロントマン。幼少期にギターを始めるものの、左利き特有の左構えの演奏スタイルであったために壁にぶつかり、ピアノに転向すると、10歳ごろから作曲の才能を開花させます。音楽院に8年通いましたが、父親の急逝に際して卒業を諦め、ピアノバーで演奏するプロミュージシャンの活動を始め、次第にベースを弾くようになりますが、前出のように左構えですが、弦の順番を替えずに右利きのままの弦の配置のまま器用に弾きこなすスタイルが粋です。
Altrove(アルトローヴェ / 意:別のところに)」(2003)はソロ・シンガーソングライターとしての最初のシングル曲で、収録アルバムは同年のタルガ・テンコ賞を受賞するほど評価されました。


11. Gatto Panceri(ガット・パンチェーリ)
モンツァ出身1962年生まれのシンガーソングライター。1983年にサンレモ音楽祭新人部門出場と共にデビューしますが、芽が出ずにしばらくはギタリストとして下積み生活に入ります。1989年に書いた楽曲がイタリア音楽界の女王Mina(ミーナ)が歌う事になり、大きな幸運につながりました。1991年にPFMの面々のサポートを得てシンガーソングライターとして再デビューすると、着実にアーティスト生活を送れるようになります。
L’amore va oltre(ラモーレ・ヴァ・オルトレ / 意:愛はもっと先へ進む)」(1991)は、再デビューのきっかけとなったサンレモ音楽祭1991新人部門出場曲。オーケストラの指揮棒を振るったのは、編曲を担当したPFMのベーシストPatrick Djivas(パトリック・ジヴァス)でした。


12. ガット・パンチェーリMia(ミア / 僕のもの)」(1997)
彼のヒット曲のひとつ。自身の歌唱楽曲の他にも他のアーティストへの提供曲も多く、その中で世界的にヒットしたのは、Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)とGiorgia(ジョルジア)がデュエットした「彼女のために生きるVivo per lei(ヴィーヴォ・ペル・レイ)」(1995)の作詞です。


13. Fabio Concato(ファビオ・コンカート)
ミラノ出身1953年生まれのシンガーソングライター。イタリアの80年代を代表するアーティストのひとり。「Non smetto di aspettarti(ノン・ズメット・ディ・アスペッタルティ / 意:君を待つのを僕は止めない)」(2012)は、ジャズテイストを取り入れた円熟したバラード。ピアノにStefano Bollani(ステファノ・ボッラーニ)、ギターにMassimo Luca(マッシモ・ルーカ)が参加しています。


【ITALIANITYプレイリスト】大阪 – ミラノ姉妹都市提携40周年にファビオ・コンカート登場!
CULTURE

【ITALIANITYプレイリスト】大阪 – ミラノ姉妹都市提携40周年にファビオ・コンカート登場! 【ITALIANITYプレイリスト】大阪 ...

よしおアントニオ / 2021.06.11


14. ファビオ・コンカートBuonanotte a te(ブオナ・ノッテ・ア・テ / 意:君におやすみを)」(1999)
近しい人に遠くからも大きな愛を与え続ける歌。物理的に遠い距離とも、あの世から現世に生きる人への愛とも捉えられる歌詞です。


15. Alex Baroni(アレックス・バローニ)
ミラノ出身1966-2002。物理学者の父と数学者の母の間に生まれ、自身も化学の道に進み、科学技術研究所で教官をしていた経験も持つシンガーソングライター。音楽への情熱は幼少期から示して、アマチュアミュージシャンとしての経験を積み、やがてプロのコーラス・マンとしてEros Ramazzotti(エロス・ラマゾッティ)らのサポートやサンレモ音楽祭のコーラス隊の一員を務めるまでとなり、ソロデビューに至ります。「Cambiare(カンビァーレ / 意:変わること)」(1997)は、サンレモ音楽祭1997新人部門出場曲で、審査委員長を務めた名テノール歌手Luciano Pavarotti(ルチアーノ・パヴァロッティ)から“最優秀ヴォーカル賞”を贈られる栄誉を得て、彼の代表作となりました。


16. アレックス・バローニOnde(オンデ / 意:波)」(1998)
2ndアルバムからのシングル曲。70年代にめくるめくような美しいポップスを奏でていたLa Bottega d’Arte(ラ・ボッテガ・ダルテ)の元メンバーMassimo Calabrese(マッシモ・カラブレーゼ)らがプロデュースしていたのも特筆するところ。このプロデュースチームはGiorgia(ジョルジア)の売り出しに成功した実績を持っていたこともあり、バローニとジョルジアはプライヴェートでも親密な仲になったのですが、そんな彼らを引き裂いたのは、2002年3月のバイク事故。脳に重大な損傷を負ったバローニは、1か月の昏睡状態の後に他界してしまいました。


17. Ron(ロン)
州南西部パヴィーア県出身1953年生まれのシンガーソングライター。16歳の時にサンレモ音楽祭1970に出場したのがレコードデビューとなり、やがて生涯に渡って師弟関係となるLucio Dalla(ルーチォ・ダッラ)と出会い、彼のもとで修業を重ね、師弟共作のヒット曲をいくつも放っています。「Non abbiam bisogno di parole(ノン・アッビアム・ビゾーニョ・ディ・パローレ / 意:僕らに言葉は必要ない)」(1992)は、ロン単独で手掛けた楽曲で、彼の代表曲のひとつとなる作品となりました。


18. ロンVorrei incontrarti fra cent’anni(ヴォッレイ・インコントラルティ・フラ・チェンタンニ / 意:100年後に君と出会いたい)」(1996)
サンレモ音楽祭1996に女性歌手Tosca(トスカ)とのデュエットで出場し、見事に優勝を勝ち取った楽曲。歌詞にはシェイクスピアの作品からの引用があちこちに感じられます。実はこの曲は当初、Ivana Spagna(イヴァーナ・スパーニャ)とデュエット予定でしたが、彼女がソロでサンレモ出場することになったため、急遽トスカに白羽の矢が当たったという逸話が残っています。


19. Dario Baldan Bembo(ダリオ・バルダン・ベンボ)
ミラノ出身1948年生まれのシンガーソングライター&ピアニスト。ピアノ教師の母の影響を受け、キーボード奏者として音楽活動を始めると、レコード会社の目に止まり、数々のレコーディングの演奏を務めるようになり、やがて偉大なLucio Battisti(ルーチォ・バッテイスティ)とのコラボやまだ若きMia Martini(ミア・マルティーニ)へ楽曲提供などで実績を積み、業界で知られる存在となっていきます。これらの活動と並行して自身のソロ活動も行っています。「Tu cosa fai stasera?(トゥ・コザ・ファイ・スタセラ / 意:今夜君は何してる?)」(1981)はサンレモ音楽祭1981で3位上位入賞した楽曲。


20. ダリオ・バルダン・ベンボAmico è [inno dell’amicizia](アミーコ・エ [インノ・デッラミチツィア] / 意:友とは [友情賛歌])」(1982)
Caterina Caselli(カテリーナ・カゼッリ)との共演でレコーディングされ、最終的にはPupo(プーポ)、Ornella Vanoni(オルネッラ・ヴァノーニ)、Giuni Russo(ジュニ・ルッソ)、Gigliola Cinquetti(ジリオラ・チンクェッティ)らがコーラスに加わる豪華版「Amico è [inno dell’amicizia](アミーコ・エ [インノ・デッラミチツィア] / 意:友とは [友情賛歌])」となり、TV番組のテーマ曲となったこともあり、大ヒットを記録。その後も長年にわたって、スポーツ応援歌としても歌い継がれる定番曲となっています。登場したのはイタリア音楽史に名を遺す歌手ばかり。それぞれの声や歌い方が判る方なら、コーラス部分で誰の歌唱が判り、より楽しめるかと思います。


21. Enrico Ruggeri(エンリコ・ルッジェーリ)
ミラノ出身1957年生まれのシンガーソングライター。「Mistero(ミステロ / 意:神秘)」(1993)は、サンレモ音楽祭1993優勝曲で、サンレモ史上初のロックな優勝曲と言われています。エンリコは1987年にもUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)とGianni Morandi(ジァンニ・モランディ)とのトリオでの優勝経験があるので、2度目の&ソロとして初の優勝となりました。


22. Decibel(デチベル)
ミラノの高校で結成されたパンク/ニュー・ウエイヴ・バンド。1977年にレコード・デビュー。前出のエンリコ・ルッジェーリが1980年まで在籍していたことで知られ、2016年からエンリコが戻って今日も活動しています。「Contessa(コンテッサ / 意:伯爵夫人)」(1980)はサンレモ音楽祭1980出場曲。作詞はエンリコ・ルッジェーリで、作曲は同バンドのFulvio Muzio(フルヴィオ・ムツィオ)。後者はピアノとギターを音楽院で学び、次第に現代音楽に興味を持つようになった人物で、デチベルが活動休止となった1982年以降、アメリカに渡って医師として働き、栄養学の分野で研究を重ねます。やがて両分野での経験を活かして音楽療法の世界でも存在を示しています。


23. Eugenio Finardi(エウジェニオ・フィナルディ)
ミラノ出身1952年生まれのシンガーソングライター。サウンドエンジニアの父とアメリカ人歌手の母との間に生まれ、イタリアとアメリカの両方で少年期を過ごしたハーフ。幼少期から歌唱力を誇り9歳の時に子供用音楽のレコーディング経験を得ています。アメリカの大学に進学しますが、イタリアに留まることに決め、ミラノのロックシーンで次第に頭角を現します。セッションマンとして活動した後、1975年にソロデビュー。当初から卓越したミュージシャンたちによる最高峰のロックアンサンブルで聴くものを唸らせるツウ好みの音楽世界を展開し、早くも2ndアルバムがヒット。収録曲の「Musica ribelle(ムジカ・リベッレ / 意:反逆の音楽)」(1976)は代表曲のひとつとなりました。バックを務めるのはArea(アレア)やLucio Fabbri(ルーチォ・ファッブリ)らの凄腕ミュージシャンたち。


24. エウジェニオ・フィナルディLe ragazze di Osaka(レ・ラガッツェ・ディ・オーサカ / 意:大阪の女のコたち)」(1983)
従来のトンガったサウンドから離れ、ロマンティックな甘い側面を打ち出した、アーティストのターニングポイントとなった時期の作品で、前年に生まれた娘がダウン症に苛まれたことが大きな心境の変化となったようです。突然“大阪”を歌った歌が録音されたことも大きな謎でしたが、後年、筆者が個人的なつながりを得た機会に尋ねてみたところ、“若い頃から日本に興味を深く抱き始めたんだ。まだ一度も行ったことがないんだけど”と語ってくれました。2番の頭にやや危うい発音ながら“アル・ノルド・デル・テンピオ・ディ・カスガ (意:春日神社の北で)”という歌詞も聴きとれるはず。大阪は至る所に“春日神社”があるようですね。


25. Mina(ミーナ)
州北西部ヴァレーゼ県生まれですが3歳から州南中央部クレモナ(もともと母親の出身地)で育ちました。1940年生まれで、今日のイタリア音楽界の最高峰に位置する歌手と考えられています。1950年代の終わりのデビューから今日まで休むことなくレコーディング活動を行い、そのレコーディング曲数は1,500曲を超え、すなわちアルバム数にして100枚以上のディスコグラフィーを有しています。その迫力のあるヴォーカルスタイルと出身地から“La tigre di Cremona(クレモナの雌虎)”の異名を取りました。
1978年のライヴを最後に大衆の前に姿を現すことを止め(TV出演もコンサートもしない)、レコーディング活動のみの歌手となりましたが、このスタイルでその後もトップスターであり続ける例はおそらく世界でも稀有な存在だと思います。
Se telefonando(セ・テレフォナンド / 意:もし電話しながら)」(1966)は、巨匠エンニオ・モリコーネが書き下ろした傑作ポップスのひとつで、サビの部分は意図的に歌詞とメロディとリズムがずれ込み、歌い崩すなどのごまかしが効かないように作られており、それでも完璧に歌いこなすミーナのための仕掛け、とモリコーネが述べています。


26. ミーナGrande, grande, grande(グランデ、グランデ、グランデ / 意:大きな、大きな、大きな)」(1972)
歌手でもある音楽プロデューサーTony Renis(トニー・レニス)らが書き下ろし、チャート首位を獲得しただけでなく、20週間にわたって5位圏内をキープするメガヒットとなり、数あるミーナの代表曲の中から外せない楽曲となりました。国外でもシャーリ・バッシー(英)、セリーヌ・ディオン(加)らがカヴァーしています。バックでオルガンを弾いているのは、前出のダリオ・バルダン・ベンボです。


27. Annalisa Minetti(アンナリーザ・ミネッティ)
ミラノ県出身1976年生まれの女性歌手にしてパラリンピアン。「Senza te o con te(センツァ・テ・オ・コン・テ / 意:あなたがいても、いなくても)」(1998)は、サンレモ音楽祭1998に初出場していきなり優勝した彼女の出世曲にして代表曲です。


パラリンピックメダリストにしてサンレモ優勝歌手アンナリーザ・ミネッティ
CULTURE

パラリンピックメダリストにしてサンレモ優勝歌手アンナリーザ・ミネッティ パラリンピックメダリストにしてサンレモ優勝歌手ア...

よしおアントニオ / 2021.08.31


28. アンナリーザ・ミネッティInvincibili(インヴィンチービリ / 意:無敵の)」(2021)
ラツィオ州ガエータで開催されたアーティスティック・イルミネーション“Favole di Luce(ファーヴォレ・ディ・ルーチェ / 意:光の寓話)”2021で披露された新曲。


29. Cristina Donà(クリスティーナ・ドナ)
ミラノ県出身1967年生まれの女性シンガーソングライター。Afterhours(アフテルアワーズ)のManuel Agnelli(マヌエル・アニェッリ / ミラノ出身)やLa Crus(ラ・クルス / ミラノのバンド)の面々とは古くからの知り合いで、彼らの助けによりクリスティーナはソロデビューを果たし、彼ら同様、ヒット曲を作ることよりも、味わい深い作品を作ることに軸足を置くスタイルの活動を行っています。
Goccia(ゴッチャ / 意:しずく)」(2000)は、元Soft Machine(ソフト・マシーン / 英ロックバンド)のRobert Wyatt(ロバート・ワイアット)との共演で話題となりました。冒頭のコルネットもワイアットの演奏です。


30. クリスティーナ・ドナSettembre(セッテンブレ / 意:9月)」(2008)
2007年発表の楽曲ですが、翌2008年のアコースティックアルバムには、Negramaro(ネグラマーロ)のGiuliano Sangiorgi(ジュリアーノ・サンジョルジ)とのデュエット版が納められました。


31. Afterhours(アフテルアワーズ)
80年代後半にミラノで結成されたロックバンドで、イタリアを代表するオルタナバンドのひとつと考えられています。後進のロック系アーティストたちからも一目を置かれる存在です。「Non è per sempre(ノン・エ・ペル・センプレ / 意:永遠ではない)」(1999)は、それ以前の彼らの作風と異なり、魅力的なメロディと甘いアレンジで表現された楽曲ではありますが、従来のシュールレアリズムな要素やシニカルな歌詞が失われていない絶妙なバランスで成り立ったった楽曲と言っても良いでしょう。


32. アフテルアワーズBallata per la mia piccola iena(バッラータ・ペル・ラ・ミア・ピッコラ・イエナ / 意:僕の小さなハイエナに捧げるバラード)」(2005)
チャート2位まで登るヒット作となったアルバム収録曲で、同アルバムは翌2006年にLou Reed(ルー・リード / 米シンガーソングライター)が英語詞を手掛けた英語盤もリリースされ、欧米諸国で発売。約1か月間に渡ってアメリカツアーも行われました。


33. Ridillo(リディッロ)
州南東部マントヴァとレッジョ・エミリア(エミリア・ロマーニャ州)のミュージシャンによって結成されたソウル&ファンクバンド。大御所Gianni Morandi(ジァンニ・モランディ)とのツアーを行ったことからその後もモランディのバックを務めることも多いバンドです。実は彼らのデビューは日本!ヤマハ主催のミュージック・クエスト’92 世界大会(@つま恋)で金賞を獲得したのです。イタリアデビューはその後という逆輸入の形となりました。「Mangio amore(マンジョ・アモーレ / 意:愛を食べる)」(1998)は彼らの初期のヒット曲のひとつ。


34. リディッロ「Figli di una buona stella(フィッリ・ディ・ウナ・ブォーナ・ステッラ / 意:ラッキースターの子供たち)」(1997)
ちょうど1996年から97年にかけて大接近し、肉眼でも18か月に渡って観測可能となったヘール・ボップ彗星をモチーフにしており、同時に明らかにAlan Sorrenti(アラン・ソッレンティ)の時代を超えた大ヒット曲「Figli delle stelle(フィッリ・デッレ・ステッレ / 意:星々の子供たち)」(1977)の要素も取り入れています。


35. Tony Dallara(トニー・ダッララ)
母の故郷モリーゼ州生まれですがミラノ育ちの1936年生まれ。1950年代後半から活動を始め、後に世界的ヒット曲の宝庫となる“カンツォーネ”のイメージを象徴する歌手のひとり。父がミラノ・スカラ座の聖歌隊員であったDNAの賜物の歌唱力と、当時の時代が求めたシャウトシンガーの要素が彼の持ち味です。「Come prima(コメ・プリマ / 意:最初の頃のように)」(1957)は、時代を超えて聴かれるエヴァーグリーン曲のひとつ。


36. トニー・ダッララRomantica(ロマンティカ / 意:夢のような女性)」(1960)
サンレモ音楽祭1960優勝曲。作曲者でもあるRenato Rascel(レナート・ラシェル)と歌い分けられましたが、ささやくような歌い方のラシェルと、シャウト唱法で歌うダイナミックなダッララと同じ曲ながらふたつの雰囲気が味わえる良いサンプルとなりました。ダッララは存命のサンレモ音楽祭優勝者の中で、最長老となっています。


37. Anna Identici(アンナ・イデンティチ)
州中南部クレモナ県出身1947年生まれ。10代で歌手デビューし、イタリア語表現の“Acqua e sapone(アックァ・エ・サポーネ / 意:水と石鹸=爽やかなイメージ)”の歌手として注目を集めます。サンレモ音楽祭1968で「Quando m’innamoro(クァンド・ミンナモーロ / 意:私が恋をする時 / 邦題:愛の花咲くとき)」を歌い、大ヒット。彼女の代表曲となりました。同曲はイタリア語で多くのスターがカヴァーしただけに留まらず、エンゲルベルト・フンパーディンク(英)が英語でカヴァーした他、スペイン語、フランス語、ポルトガル語、オランダ語、日本語などたくさんの言語でもカヴァーされる国際的なヒットとなりました。


38. アンナ・イデンティチUna rosa da Vienna(ウナ・ローザ・ダ・ヴィエンナ / 意:ウィーンからのバラ / 邦題:ウィーンのバラ)」(1966)
サンレモ音楽祭1966出場曲。同曲を歌い分けたのは「Green, Green」のヒットで知られるNew Christy Minstrels(ニュー・クリスティ・ミンストレルズ / 米コーラスグループ)です。


39. Luciano Tajoli(ルチァーノ・タヨーリ)
ミラノ出身1920-1996。戦後のイタリアを牽引した人気歌手のひとりで、世界中で4500万枚ものレコードセールスを記録しました。幼少期にポリオに感染したため、足に障害を持った歌手としても活躍しました。「Sei stata tu(セイ・スタータ・トゥ / 意:それは君だった)」(1948)はタンゴのリズムで書かれた当時のヨーロッパの雰囲気に溢れたクラシカルな楽曲です。


40. ルチァーノ・タヨーリTango delle capinere(タンゴ・デッレ・カピネレ / 意:ズグロムシクイのタンゴ / 邦題:しじゅうからのタンゴ)」(1928)
20世紀の始めから500曲以上の作曲をし、映画音楽界でも巨匠となったCesare Andrea Bixio(チェーザレ・アンドレア・ビクシィオ)の代表曲のひとつ。作詞者は偶然にも同じBixioを名に持つBixio Cherubini(ビクシオ・ケルビーニ)で彼もたくさんの作品とヒット曲を残しています。同曲はたくさんの歌手に歌い継がれていますが、タヨーリの代表曲のひとつとなりました。