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ロンバルディア州出身歌手特集!

ITALIANITYロンバルディア特集KV

11月・12月のITALIANITYのテーマ「ロンバルディア特集」に合わせて、ロンバルディア州出身歌手の代表曲を2回に分けてご紹介します。


ロンバルディア州の位置と県
ロンバルディア州の位置と県

プレイリスト収録曲詳細

1. Biagio Antonacci(ビァージョ・アントナッチ)
ミラノ出身1963年生まれ。80年代の終わり頃にシーンに登場し、90年代に絶大な人気を獲得してビッグとなったシンガーソングライター。数多くのヒット曲を持っていますが、この「Iris [tra le tue poesie](イリス [トラ・レ・トゥエ・ポエジエ] / 意:イリス [君の詩の狭間に])」(1998)は自身の代表曲のひとつとなる大ヒット曲。


2. ビァージョ・アントナッチSognami(ソーニャミ / 意:僕を夢にみてくれ)」(2007)
ビァージョのもうひとつの路線となったジプシー調のアレンジのヒット曲。


3. Gianluca Grignani(ジャンルカ・グリニャーニ)
ミラノ出身1972年生まれのシンガーソングライター。元PFMのFranco Mussida(フランコ・ムッシーダ)の学校で音楽を学び、凄腕ミュージシャン&プロデューサーのVince Tempera(ヴィンチェ・テンペラ / 元イル・ヴォーロ)、Massimo Luca(マッシモ・ルーカ / ルーチォ・バッティスティのギタリスト)らのサポートを得ていきなりヒットしたデビュー曲がこの「La mia storia tra le dita(ラ・ミア・ストーリア・トラ・レ・デイータ / 意:指の間の僕の物語)」(1994)です。


4. ジャンルカ・グリニャーニDestinazione Paradiso(デスティナツィオーネ・パラディーゾ / 意:目的地・天国)」(1995)
サンレモ音楽祭1995新人部門出場曲。結果は6位と振るわなかったものの、その後イタリアはもちろん、南米でも大ヒットして、彼の代表曲となりました。2007年にラウラ・パウジーニがカヴァーしたことで、同曲はさらに知名度を上げることになります。
架空のパラディーゾ(天国)市のパラディーゾ駅へ向かう鉄道が歌われています。


5. Max Pezzali(マックス・ペッツァーリ)
州南西部パヴィーア出身1967年生まれのシンガーソングライター。「L’universo tranne noi(ルニヴェルソ・トランネ・ノイ / 意:僕らを除いた宇宙)」(2013)は、例え愛が終わったとしても、愛とはいかに大きく、忘れがたいものであることを歌っています。

6. 883(オット・オット・トレ)
ハーレーダヴィッドソンの型番を冠したグループ名で、前出のマックス・ペッツァーリが在籍していたグループです。「Hanno ucciso l’Uomo Ragno(アンノ・ウッチーゾ・ルオーモ・ラーニョ / 意:スパイダー・マンが殺された)」(1992)は最初期に放ったメガヒット曲。同曲のように一風変わったモチーフを取り上げた楽曲やロングセラーとなるバラードで90年代のイタリア音楽シーンをにぎわせました。

7. Paola & Chiara(パオラ・エ・キァーラ)
その883に途中加入したコーラスガール姉妹(ミラノ出身 / 1974年生まれ & 1973年生まれ)が独立してデビュー。「Vamos a bailar [Esta vida nueva](バモス・ア・バイラル [エスタ・ビーダ・ヌエーバ) / 意:踊りましょう [ 新しい生活だよ]」(2000)は夏のダンス曲として大ヒットを記録した、彼女たちの一番の代表曲といって良いでしょう。この楽曲のようにイタリアではダンサブルな曲にスペイン語のタイトルを付けたり、サビにスペイン語を持ってくる手法がよく使われます。

8. パオラ・エ・キァーラFestival(フェスティヴァル)」(2002)
姉妹はこうしたダンサブルな楽曲とセクシーなビジュアルで人気を博しましたが、2013に解散。その後はそれぞれ女優業やソロ歌手として活動しています。

9. Povia(ポーヴィア)
ミラノ出身1972年生まれのシンガーソングライター。「Vorrei avere il becco(ヴォッレイ・アヴェーレ・ウン・ベッコ / 意:クチバシがあればなぁ)」でサンレモ音楽祭2006優勝。ハトの鳴き声の声帯模写も注目を集めました。

10. ポーヴィアI bambini fanno “ooh…”(イ・バンビーニ・ファンノ・“オォ” / 意:子供たちが“わぁ”と言う)」(2005)
サンレモ音楽祭2005出場のために準備されていた楽曲ですが、会期以前に大衆の面前で披露されていたことがバレて出場が叶わなかったものの、大ヒットを記録した出世曲。


11. Roberto Vecchioni(ロベルト・ヴェッキォーニ)
州中西部モンツァ・エ・ブリアンツァ県出身1943年生まれ。高校でラテン語とギリシャ語の教諭をしながら60年代後半にソングライターとして頭角を現し、70年代にシンガーソングライターとしてブレイク。イタリア音楽界の3大賞と言われる、テンコ賞、ルネツィア賞、そしてサンレモ音楽祭優勝の三冠を成し遂げた偉人。「Chiamami ancora amore(キァーマミ・アンコーラ・アモーレ / 意:僕をもう一度愛しい人と呼んでくれ)」(2011)はサンレモ音楽祭優勝曲。
音楽活動と並行して高校教師を30年務めた後も、大学で教鞭をとり続けています。音楽界でも敬愛を込めて“プロフェッソーレ(教授)”と呼ばれています。

12. ロベルト・ヴェッキォーニLuci a San Siro(ルーチ・ア・サン・シーロ / 意:サン・シーロの灯り)」(1971)
シンガーソングライターとしての最初期の作品で、シングル化されなかったのにも関わらず、彼の代表作であることはもちろん、イタリア音楽における名作のひとつとして輝き続ける楽曲です。若い頃のほろ苦い恋愛をミラノ愛も添えて歌った楽曲です。

サン・シーロとはミラノ郊外の自治体名であると同時に、かの地にあるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァの愛称でもあります。インテルとACミランのホームグラウンドでもあるので、サッカーファンには知名度が高いことでしょう。イタリアでは超ビッグなアーティストのみがコンサートでの使用が許されるという、まさに頂点に位置する会場でもあります。


通称サン・シーロことスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ
通称サン・シーロことスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ

13. Drupi(ドゥルピ)
州南西部パヴィーア出身1947年生まれで、風変わりな芸名は子供時代になりきり遊びをしていたエルフの名前です。サンレモ音楽祭1973に「Vado via(ヴァード・ヴィア / 意:僕は行くよ」」で出場するもファイナリストに残らずじまいとなりましたが、後にイタリアを超えてヨーロッパやスペイン語圏で大ヒットして彼の代表曲のひとつとなりました。

14. ドゥルピSoli(ソリ / 意:孤独)」(1982)
サンレモ音楽祭1982で3位に位置付け、ヒットした楽曲。何といってもNew Trolls(ニュー・トロルス)の2人(ヴィットリオ・デ・スカルツィとジャンニ・ベッレーノ)と3人で共作した楽曲で、編曲はヴィットリオ・デ・スカルツィ、楽器演奏とコーラスもニュー・トロルスの面々というのも聴きどころ。

15. Fausto Leali(ファウスト・レァーリ)
州東部ブレシャ県出身1944年生まれ。60年代から活動を続けるR&Bシンガー。「Io amo(イオ・アーモ / 意:僕は愛する)」(1987)はFranco Fasano(フランコ・ファザーノ)とToto Cutugno(トト・クトゥーニョ)というシンガーソングライターとしても活躍する2人とファウスト・レァーリ自身の3人で共作した美しい作品で、ヒットチャートの2位まで登る大ヒットとなりました。

16. ファウスト・レァーリMi manchi(ミ・マンキ / 意:君が恋しい)」(1988)
サンレモ音楽祭1988で5位となった楽曲で、フランコ・ファザーノが書いた名曲のひとつ。ヒットチャートの6位まで登りました。2006年にアンドレア・ボチェッリがカヴァーしたことで世界中に知られる楽曲となりました。

17. Ornella Vanoni(オルネッラ・ヴァノーニ)
ミラノ出身1934年生まれ。50年代後半に舞台歌手としてデビューし、60年代に三大プリマドンナのひとりと称されるようになり、今も現役歌手生活を続けるイタリア音楽界の最古参レジェンド歌手の代表格です。数多くのヒット曲やレパートリーを持っていますが、今回は単なるカンツォーネ歌手からの脱却に成功した1974年のアルバム(自身の独自レーベル第1弾作)に収録された「Stupidi(ストゥーピディ / 意:愚かな人たち)」を選びました。イタリアに帰化したイギリス人アーティストShell Shapiro(シェル・シャピロ)が書いた楽曲です。プロデュースは名作詞家にしてイタリア音楽史に名を遺す名匠Sergio Bardotti(セルジョ・バルドッティ)。バックを固めるのは、後にAngelo Branduardi(アンジェロ・ブランドゥアルディ)をワールドミュージックの領域でブレイクさせるMaurizio Fabrizio(マウリツィオ・ファブリツィオ)を始めとする、当時のイタリア音楽界最高のミュージシャンたち。
このアルバムの成功が無ければ、今日まで活躍を続ける大歌手オルネッラは存在しなかったと考えられています。

18. オルネッラ・ヴァノーニMusica musica(ムジカ・ムジカ / 意:音楽・音楽)」(1981)
1981年の新作アルバムでオルネッラは過半数の作詞を担当し、シンガーソングライターとしての新しい側面を表現するようになった記念すべき楽曲。名匠セルジョ・バルドッティとマウリツィオ・ファブリツィオとの共作。

19. L’Aura(ラウラ)
州東部ブレシャ県出身1984年生まれの女性シンガーソングライター。米国留学していたため英語作詞&歌唱が得意。2005年にアルバムデビューした翌年、サンレモ音楽祭2006新人部門に「Irraggiungibile(イッラッジュンジービレ / 意:達成できない)」(2006)で出場し、チャート17位まで登るヒットとなる出世作となりました。

20. ラウラÈ per te(エ・ペル・テ / 意:あなたのためよ)」(2007)
オルタナ・ロックバンドDeasonika(デアソニカ)のリーダーMax Zanotti(マックス・ザノッティ / 州北西部コモ出身)とのデュエットで発表された美しいバラード。ラウラ自身と共演相手のザノッティ、そして名マエストロAdriano Pennino(アドリァーノ・ペンニーノ)の3名で共作された楽曲です。なお、ラウラは2016年に来日公演歴があります。


21. Malika Ayane(マリカ・アヤン)
ミラノ出身1984年生まれ。モロッコ人父とイタリア人母の間に生まれたハーフで、幼少時にはスカラ座の少年少女合唱団に所属していた経歴を持っています。「Senza fare sul serio(センツァ・ファーレ・スル・セリオ / 意:真剣にならずに)」(2015)は、マリカ自身が作詞に参加した楽曲で、最低限のアレンジを施したダンスナンバーとして世評価され、ヒットチャート最高10位、年間チャートでも25位に入るヒットとなりました。

22. マリカ・アヤンCome foglie(コメ・フォーリェ / 意:葉っぱのように)」(2009)
サンレモ音楽祭2009新人部門で2位となり、ヒットチャートでも最高2位、年間チャートでも10位と大ヒットし、彼女の出世曲となりました。書き下ろしたのは人気バンドNegramaro(ネグラマーロ)のヴォーカルにして稀代のソングライターGiuliano Sangiorgi(ジュリァーノ・サンジョルジ)。マリカ・アヤンは2013年に来日公演を果たしています。

23. Giusy Ferreri(ジューズィー・フェッレーリ)
1979年生まれ。シチリア州パレルモ生まれですが、幼少期にミラノ県に移り住んだミラノ育ちの女性歌手。2008年に始まったX Factorイタリア版第1回に参加し、“25歳以上部門”という中心層から外れた出場枠だったものの、見事に準優勝を獲得。人気シンガーソングライターTiziano Ferro(ティツィアーノ・フェッロ)が書き下ろした「Non ti scordar mai di me(ノン・ティ・スコルダール・マイ・ディ・メ / 意:私のことを決して忘れないで)」(2008)で同年夏、空前の大ヒットを記録し、チャート首位はもちろんのこと、年間チャートでも2位という大ブレイクを果たしました。それはオーディション番組出身歌手が放った初の大ヒット曲でもあり、その後のイタリア音楽界でオーディション番組出身歌手たちが大活躍していく発端となりました。


24. ジューズィー・フェッレーリTi porto a cena con me(ティ・ポルト・ア・チェーナ・コン・メ / 意:あなたを夕食に連れて行くわ)」(2014)
同年のサンレモ音楽祭出場曲でチャート14位まで登るヒット・バラードとなりました。

25. Dori Ghezzi(ドリ・ゲッツィ)
州中西部モンツァ・エ・ブリアンツァ県出身1946年生まれ。60年代にデビューすると、いくつかのスマッシュヒットとお人形さんのようなルックスに注目が集まりましたが、なんといってもアメリカ人ベース&ヴォーカルとしてヨーロッパを起点に活動していたWess(ウェス)とのデュオWess & Dori Ghezziとしての7年ほどの活動が彼女の演者としてのキャリアの中で大きなウエイトを占めます。そのWessとのデュオ時代の代表曲が「Un corpo e un’anima(ウン・コルポ・エ・ウナニマ / 意:身体ひとつと心ひとつ)」(1974)。Lucio Battisti(ルーチョ・バッティスティ)のベーシストとしても知られるDamiano Dattoli(ダミァーノ・ダットリ)と数年後に世界的にブレイクする無名時代のUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)らが書き下ろした楽曲であることも注目に値します。

26. ドリ・ゲッツィMamadodori(ママドドリ)」(1980)
Wessとのデュオ解散後にドリ・ゲッツィが発表したアルバムのタイトル曲。Fabrizio De André(ファブリツィオ・デ・アンドレ)との間に生まれた娘Luvi(ルヴィ)に捧げた楽曲。デ・アンドレがイタリアの国民的人気を持つシンガーソングライターとなり、死後に神格化してからは、ドリが未亡人としてデ・アンドレの意思を継承する重要な役割を果たしています。

27. Le Vibrazioni(レ・ヴィブラツィオーニ)
ミラノで結成され、2000年代のボーイズバンドブームを牽引した人気バンドとなり、一時期はフロントマンFrancesco Sarcina(フランチェスコ・サルチナ / ミラノ出身1976年生まれ)が脱退してバンド存続の危機となったものの、2017年にサルチナがバンドに復帰して活動を続けています。「Dedicato a te(デディカート・ア・テ / 意:君に捧ぐ)」(2003)は彼らのデビュー曲にしてチャート首位を獲得した記念すべき楽曲。

28. レ・ヴィブラツィオーニDov’è(ドヴェ / 意:どこにあるのか)」(2020)
サンレモ音楽祭2020で4位となった、生きる勇気を与えてくれる美しいバラード曲。サンレモ音楽祭でのパフォーマンスは手話役がフランチェスコ・サルチナの隣で手話を駆使して歌詞を伝えるというエポックメイキングなパフォーマンスを披露しました。


29. Elio e le Storie Tese(エリオ・エ・レ・ストリエ・テーゼ)
全員が音楽院卒という音楽エリート集団でありながら、イタリアいちのコミックバンドとしてのパフォーマンスにこだわり続けたバンドでしたが、惜しまれつつも2018年に活動終了してしまいました。サンレモ音楽祭1996に「La terra dei cachi(ラ・テッラ・デイ・カキ / 意:柿の国)」で出場し、2位となった楽曲。サンレモ会期中はメンバー全員が全身銀色&顔も銀塗りの宇宙人を模した姿でステージに立ったり、1分間で楽曲を早回しでフル演奏する曲芸技を見せたりと、コミックバンドとしての水を得たようなパフォーマンスも楽しませてくれました。

30. エリオ・エ・レ・ストリエ・テーゼLa canzone mononota(ラ・カンツォーネ・モノノータ / 意:単音の歌)」(2013)
サンレモ音楽祭2013で2位となった楽曲で、歌い出しこそメロディアスな旋律に乗せて始まりますが、メインのメロディにはタイトル通り、ほぼドの音しか使わないという徹底した枷を自らはめて作られた楽曲です。“単音の歌さえ歌えないのなら、歌手としての夢を捨てるのがお勧め” というコンセプトですね。とはいえ、コードやリズム、テンポは様々なものを盛り込んで飽きさせないようにした仕込みこそが聴きどころ。やはり音楽エリート集団なんだなぁ、と実感できることでしょう。チャートでも6位まで登るヒットとなりました。

31. Pinguini Tattici Nucleari(ピングイニ・タッティチ・ヌークレアーリ)
州中央部ベルガモ県で結成されたバンドで、10年ほどインディーズシーンで活動していましたが、サンレモ音楽祭2020に初出場していきなり3位に上位入賞した彼らの大出世曲が「Ringo Starr(リンゴ・スター)」(2020)です。元ビートルズのドラマーを題材に、天才や真のスターたちの間で隠れがちな人々を称える歌となっています。

32. ピングイニ・タッティチ・ヌークレアーリScrivile scemo(スクリーヴィレ・シェーモ / 意:彼女にバカげたことを書け)」(2021)
チャート11位まで登るスマッシュヒットとなった楽曲。

33. Mahmood(マームッド)
ミラノ出身1992年生まれ。エジプト人父とイタリア人母の間に生まれたハーフ。サンレモ音楽祭2019に「Soldi(おカネ)」で初出場すると、総合優勝(同年は新人部門なしだったため)の快挙を成し遂げたラップ系シンガーソングライター。同年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストでも2位に輝きました。同曲は蒸発した実父への望郷の念と同時に確執が歌われ、一部アラビア語のセリフも入る異色の楽曲です。

34. マームッドBarrio(バッリオ / 意:近所)」(2019)
メロディメーカーDardust(ダルダスト)ことDario Faini(ダリオ・ファイーニ)と人気ラッパーでもあるCharlie Charles(チャーリー・チャールス)の共同プロデュース楽曲で、チャート4位まで登るヒットとなりました。

35. Gemelli Diversi(ジェメッリ・ディヴェルシ)
ミラノで結成されたポップ&ラップ・グループ。2000年頃にシーンに登場し、メロディアスなポップスとラップを融合させたスタイルを構築し、その後のイタリア語ラップにひとつの道筋を築いた功績を持っています。
「Icaro(イカロ / 意:イカロス)」(2007)は、ギリシャ神話に登場する、空を飛ぶ能力を得た青年イカロスを題材に歌っています。イカロスはあらぬ疑いで捕らわれの身になったものの、蜜蝋で固めた翼で飛行して脱出に成功しますが、調子に乗って太陽に近づき過ぎ、太陽神アポロンの怒りに触れて蜜蝋が溶けて墜落死してしまいます。


36. ジェメッリ・ディヴェルシTutto da capo(トゥット・ダ・カーポ / 意:すべて最初から)」(2012)
2014年まで同グループに在籍していたラッパーGrido(グリード)はベテランラッパーJ-Ax(ジェイ・アックス)の実弟でもあります。

37. J-Ax(ジェイ・アックス)
90年代にヒップホップデュオArticolo 31(アルティコロ・トレントゥーノ)のラッパーとして時代を牽引したイタリア古参のベテランラッパー。「Italiana(イタリアーナ / 意:イタリア女)」(2018)は若手人気ラッパーFedez(フェデツ)と組んでチャート1位を獲得したヒット曲。

38. ジェイ・アックスOstia Lido(オスティア・リド)」(2019)
タイトルはローマ県の海沿いの町の名前で、ローマ市民御用達のビーチとして名高い地区です。この歌は海外のリゾート地に繰り広げられるシーンを描きがちな風潮に異を唱えた楽曲で、イタリアには世界に誇れるリゾート地がたくさんあることや、見栄を誇示するような行為から離れて、身近なところに目を向けて楽しむ生き方の大事さを指摘しています。

39. Fedez(フェデツ)
ミラノ出身1989年生まれ。2010年代にブレイクした若い世代のラッパーの代表格。「Mille(ミッレ / 意:1000)」(2021)は、ド派手なパフォーマンスで注目を集めるAchille Lauro(アキッレ・ラウロ)と60年代から活動するカンツォーネ歌手Orietta Berti(オリエッタ・ベルティ / 1943年生まれ)を呼び寄せて作成した2021年の話題曲のひとつ。このまさかの顔合わせは確かに大きな話題となりました。チャート1位を記録。


40. フェデツChiamami per nome(キァーマミ・ペル・ノーメ / 意:私を名前で呼んで)」(2021)
人気と実績を兼ね備えた若手女性シンガーソングライターFrancesca Michielin(フランチェスカ・ミキェリン / 1995年生まれ)とデュエット第3弾で、サンレモ音楽祭2021で2位となりました。楽曲を書いたのは2人の演者に加え、前出のMahmoodの名もあることも特筆するところです。この曲もチャート1位を記録しました。

41. Cochi e Renato(コーキ・エ・レナート)
俳優・コメディアンに軸足を置く男性デュオで共にミラノ出身(1940・41年生まれ)。60年代後半から70年代後半まで活動しましたが、休止期間を経て1998年に再始動し、現在も活動中です。「E la vita, la vita(エ・ラ・ヴィータ、ラ・ヴィータ / そして日常、日常)」(1974)は同年のカンツォニッシマのエンディング曲に抜擢され、チャート1位、年間チャートでも13位に入る大ヒット曲となりました。作詞と編曲は重鎮シンガーソングライターEnzo Jannacci(エンツォ・ヤンナッチ)が担当しました。

42. コーキ・エ・レナートCanzone intelligente(カンツォーネ・インテッリジェンテ / 意:知的な歌)」(1973)
2人の看板番組のエンディング曲に採用された楽曲で、この曲もエンツォ・ヤンナッチが作詞を担当しています。

43. Betty Curtis(ベッティ・クルティス)
ミラノ出身1936-2006。1950年代後半にデビューし、戦後の経済復興期や古き佳きイタリアのイメージを象徴する女性歌手。「Nessuno(ネッスーノ / 意:誰も)」(1959)はサンレモ音楽祭に初出場して歌った曲のひとつ(合計3曲歌唱)で、Mina(ミーナ)がオリジナルと勘違いされている楽曲ですが、ミーナのは後年のカヴァーで、こちらがオリジナル。

44. ベッティ・クルティスAl di là(アル・ディ・ラ / 意:向こうに)」(1961)
サンレモ音楽祭1961優勝曲で、Luciano Tajoli(ルチァーノ・タヨーリ)と彼女が歌い分けました。国境を越えて様々な歌手がカヴァーするほど国際的なヒット曲となりました。後にルーチォ・バッティスティとのコンビで一世を風靡する作詞家Mogol(モゴール)が既にこの楽曲を手掛けていることも驚きです。

45. Johnny Dorelli(ジョニー・ドレッリ)
ミラノ出身1937年生まれ。父が有名なテノール歌手Nino D’Aurelio(ニーノ・ダウレリオ)だったため10歳ごろにアメリカに移住し、アメリカで音楽教育を受けました。彼がイタリアにもたらしたアメリカ文化は後のイタリア音楽界にとって大きく影響を与えたようです。「Carolina dai!…(カロリーナ・ダイ… / 意:カロリーナ、さぁ…)」(1961)は前出のベッティ・クルティスとのデュエット。

46. ジョニー・ドレッリMontecarlo(モンテカルロ)」(1961)
彼にぴったりの国際的な雰囲気をまとった、大人っぽい楽曲ですが、当時彼はまだ25歳だったのも驚きです。

47. Achille Togliani(アキッレ・トリアーニ)
州南東部マントバ県出身1924-1995。戦中から戦後の歌謡界を牽引した男性歌手。「La signora di trent’anni fa(ラ・シニョーラ・ディ・トレンタンニ・ファ / 意:30年前のご婦人)」(1958)は、30年前に舞踏会で見かけた魅力的な女性のことを歌っていますが、そのご婦人の正体とは・・・失った青春だった・・・というオチです。この曲を歌ったアキッレは当時まだ34歳でしたが。。。

48. アキッレ・トリアーニCome pioveva(コメ・ピオーヴァ / 意:なんと雨が降っていたのでしょう)」はアキッレのヒット曲にひとつで、50年代にヒットしましたが、そのオリジナルとなる作者のテイクは1918年にまで遡るそうです。この甘美な楽曲は1975年にポップグループBeans(ビーンズ)が再カヴァーして後世に引き継がれました。