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入門者にお奨め!イタリア人 + 外国人アーティストの共演作品

Musica Senza Confini – 国境を超えたイタリア人アーティスト特集

洋楽は聴くものの、今ひとつイタリアン・ポップスを聴き始める糸口が判らない、という方には、イタリア人アーティストたちと外国人アーティストたちの共演曲から聴き始めるのはいかがでしょうか?

イタリア音楽の中には、他国のトップアーティストたちと共演している事例が実はたくさんあります。

世界的に有名なミュージシャン(エリック・クラプトンなど)との共演ともなると、ここに紹介しきれないほどたくさんありますので、今回は特に歌での共演で、イタリア人アーティストが母国語で歌っているテイクを中心に紹介いたします。

布袋寅泰と共演!- Zucchero(ズッケロ)

Zucchero(ズッケロ)はその中でも筆頭株で、外国人共演者(ミュージシャン含む)をリストアップしていったら、本当にキリがありません。彼はブルーズやラテンロックの影響を強く受けており、イタリア語でも英語でも歌うスタイルのため、外国人アーティストたちとの交流は古くから始めていました。

新人登竜門コンクールからサンレモ音楽祭に出場するというイタリア伝統のコースを踏襲してデビューするも、その安定路線を捨てて単身アメリカに修行しに赴いた時に、外国のアーティストたちとの交流を持ち、自身の音楽スタイルを確立したようです。

日本人として押さえておきたいのは、布袋寅泰と共演した「ティ・ヴォリョ・スポザーレ[君と結婚したい](Ti voglio sposare)」(2016)です。

この2人の共演のおかげで、同曲は日本の大手通信カラオケにも採用されました。(注:日本のカラオケには60年代に日本でもヒットしたカンツォーネぐらいしか登録がありません。)

同年、日伊国交150周年記念イベント「イタリア、アモーレ・ミオ」(主催:在日イタリア商工会議所)のスペシャルゲストとして初来日したズッケロのステージには布袋寅泰が全曲参加し、同曲以外にも卓越したギターワークとイタリア語コーラスを魅せてくれました。

その少し前に、ロンドンを拠点に移していた布袋寅泰は、ヨーロッパで絶大な知名度を持つズッケロの胸を借り、アジア圏ではその逆の役割を果たす、というコラボ関係にあるようです。

ズッケロのそれ以前の共演で押さえておくべきなのは、Sting(スティング/英)との共演曲「Muoio per te(ムオイオ・ペル・テ / 意:僕は君のために死ぬ)」です。元々はスティングの「マッド・アバウト・ユー(Mad About You)」(1991)にズッケロがイタリア語詞を当てはめたもので、アルバム『ソウル・ケージ(The Soul Cages)』(1991)のイタリア盤のボーナストラックとしてStingがイタリア語歌詞を歌ったものが収録されたのですが、後に両者のデュエットヴァージョンも録音されました。なんといってもスティングのイタリア語ヴォーカルが聴きどころ。

ちなみにスティングはイタリア愛が強いようで、トスカーナ州に家を買ったのを皮切りに、周辺の畑や丘をも買い取って農場も経営しています。

そもそもズッケロはジャンルの垣根を跨ったコラボを行うことが多く、その最大の功績はクラシック界との垣根を超えたルチァーノ・パヴァロッティとの共演曲「Miserere(ミゼレーレ)」(1992)です。

世界三大テノールとして名声を誇ったパヴァロッティのパートをレコーディング前にガイド歌手を務めたのがデビュー前のアンドレア・ボチェッリで、そのテイクを聴いたパヴァロッティが「私が歌わなくても、彼が歌ったものでイイのでは?」と言ったという逸話はあまりにも有名です。

ズッケロとの共演をきっかけにパヴァロッティは、『パヴァロッティ&フレンズ』というチャリティ・コンサートを始め、国やジャンルの垣根を越えて様々なアーティストとの共演を始めることになり、一段と大きな存在となりました。そしてパヴァロッティのお墨付きをもらったアンドレア・ボチェッリもその後国際的にブレイクしていくことになります。

彼らのブレイクのきっかけを作ったのはズッケロ、と言っても過言ではないでしょう。

ワンリパブリック、ネグラマーロと共演!

ダウンロード時代の寵児となった米バンドOneRepublic(ワンリパブリック)がイタリアはプーリァ州出身のバンドNegramaro(ネグラマーロ)を共演相手に選んだ「Better days – Giorni migliori(ベター・デイズ=ジォルニ・ミリォーリ)」(2020)も注目株。

両バンドとも2000年初頭に台頭し、ヴォーカリストが才能あふれるメインコンポーザーという似たタイプと言えるでしょう。

70年代にイタリア発世界的ヒット曲を放ったウンベルト・トッツィ!

今では想像が難しいことかもしれませんが、1960年代には間違いなく世界のヒット曲の量産地だったイタリア。1970年代に経済破綻・政治不安に陥ったことやアメリカが世界経済の覇者になっていったことなどから、イタリア語ポップスは次第に世界の音楽市場から遠ざかることになりましたが、実はその後もイタリア発世界のヒット曲が放たれています。

1970年代後半にその役目を果たしたひとりがUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)でしょう。

Ti amo(ティ・アーモ / 意:君を愛している)」(1977)がいきなり世界的な大ヒット曲となり、英語圏では “Mr. Ti amo(ミスター・ティ・アーモ)”の異名で呼ばれることとなります。翌’78年には「Tu(トゥ / 意:君)」、続く’79年には「Gloria(グローリア)」の3曲が立て続けに世界中で大ヒット。

ところが当時の日本では、既に英語圏音楽主体の市場になってしまっており、リアルタイムに日本で紹介するチャンスを逃してしまい、先進国の中では日本だけウンベルト・トッツィはビッグネームになることがありませんでした。

しかしながら米歌手ローラ・ブラニガンがこれらのトッツィの楽曲を英語でカヴァーしたことで、英語曲として日本では知られることになりました。

プレイリストには、Ti amoヒット40周年記念として録音されたアナスタシア(米)とのデュエットを納めてあります。

世界のディーヴァ、ラウラ・パウジーニ

イタリア女性初のグラミー賞受賞に加え、ラテングラミー賞を4度も受賞して、最も世界的な知名度を誇るLaura Pausini(ラウラ・パウジーニ)も、事あるごとに他のアーティストとの公式デュエットをリリースしており、外国人との共演もいくつかあります。

ジェイムス・ブラント(英)との共演曲として発表されたのは「Primavera anticipo [It is my song](プリマヴェーラ・アンティチポ / 意:早春)」(2008)です。

ジェイムス・ブラントといえば、日本でもTVドラマやトヨタ・ヴィッツのCMに採用された「ユア・ビューティフル(You’re Beautiful)」(2005)で知られる、元軍人という異色の経歴を持つシンガーソングライターですね。

ラウラは他にも故ジョニー・アリディ(仏)、ジルベルト・ジル(ブラジル)などその国を代表する世界的に著名なアーティストとの共演も果たしています。

世界中で引っ張りだこのエロス・ラマゾッティ

Eros Ramazzotti(エロス・ラマッツォッティ / 日本での表記:エロス・ラマゾッティ)は、80年代に初頭にシーンに現れ、20歳でサンレモ音楽祭に出場してその年に開設された新人部門の初優勝者になると、瞬く間にヨーロッパ中で大ブレイク。スペイン語でも歌い始めると中南米でも絶大な名声を勝ち取り、若くして世界的なスターとなります。

世界中のスターとの共演がたくさんあり、デュエット曲だけを集めたアルバム『Eros Duets』(2017)がリリースされるほどです。

「洋楽=英語曲」の図式に陥っていた日本でも、エロスの世界的な大ブレイクを傍観しているだけでは済まなくなったようで、90年代にようやく日本でのプロモーションを始めますが、なかなか一筋縄ではいかず、日本での売り出しは頓挫してしまいます。

あのビッグスターたるエロスをもってしても失敗に終わったという事実は、その後の日本でのイタリア音楽の普及にとって大きな負の遺産となり、日本の音楽業界ではイタリアものの開拓・紹介に消極的になってしまい、そのまま現在に至っています。

つまり世界的な知名度を持つイタリア人アーティストや、世界的にヒットしたイタリア語曲を知らないのは、先進国の中では日本だけ、という状態に陥っています。イタリア好きな日本人でさえ、多くの方はその構図から脱却していない方が多いのが残念でなりません。

日本でもブレイクしたアンドレア・ボチェッリ

Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)は、前出の通りズッケロとパヴァロッティに発掘された歌手です。そのブレイクのきっかけとなった楽曲「コン・テ・パルティロ(Con te partirò / 意:あなたと共に旅立とう)」はサンレモ音楽祭1995で発表されるも4位と中途半端な結果に留まり、イタリアでは次第に忘れ去られていく運命にあった楽曲に過ぎませんでした。ところが半年後ドイツから火が付き、サラ・ブライトマン(英)とのデュエットヴァージョン「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」が世界的に大ヒット。

カナダ人プロデューサーDavid Foster(デヴィッド・フォスター)の手腕により、アメリカ市場に上手に導入されたことにより、瞬く間に世界的なアーティストとなりました。

結果、多くの世界中のスター歌手たちとの共演・デュエット曲・テイクがたくさん生まれています。日本人に一番聴いて欲しいのは、唯一の日本人歌手との公式デュエット曲となった「ソモス・ノビオス~愛の夢(Somos novios)feat. 夏川りみ」なのですが、Spotifyに同曲の登録はありませんでした。同テイクは、アルバム『Amore』の日本盤『貴方に贈る愛の歌』(2006)にのみ収録されています。原盤ではクリスティーナ・アギレラ(米)とのデュエットですが、日本盤をリリースするにあたり、日本人女性歌手とのデュエットヴァージョンを収録したいということとなり、ボチェッリ側からの指名で夏川りみが選ばれたという逸話が残っています。

日本でも2000年のボチェッリの初来日公演が成功し、日本の文化人にファンが増えたこともあり、日本でも知名度を上げ、アルバムはほぼリアルタイムに日本盤もリリースされるという、貴重な存在のイタリア人アーティストとなりました。

日本ではテノール歌手の立ち位置で紹介され、クラシック様式の来日公演(=チケット代を高価に設定できる)が行われることが暗黙のお約束になってしまいましたが、もともと彼の存在意義は、クラシックの素養をもってクラシックもポップスも歌うというクロスオーヴァ―スタイルです。事実、彼のデビューはサンレモ音楽祭(ポップスのフェスティヴァル)ですし、当時はタキシードではなく革ジャン姿でも歌っていました。

イタリアではボチェッリの成功の後、このスタイルを踏襲する歌手たちが何人か出現しましたが、彼ほどの成功を収めた者は育ちませんでした。21世紀になって10代の青年たち3人組のIl Volo(イル・ヴォーロ)がかろうじてポスト・ボチェッリの立ち位置で成功した存在にすぎません。

ボチェッリの日本市場での成功によって、多くの日本人が勘違いしていることですが、ボチェッリがイタリアの代表的な歌のスタイルではありません。彼はあくまでもクラシック&ポップスの融合という特殊なスタイルで、イタリアでも特殊な存在として成功した一例に過ぎません。

例えて言うならば、世界でヒットした日本の曲として「上を向いて歩こう」、YMOの楽曲群、「PPAP」などがありますが、これらがJ-Popsを象徴する楽曲だと他国で思われていたら、日本人としてはどう思うでしょうか?

特にイタリア好き日本人には、イタリアでメインストリームとなっている音楽をもっと聴いてもらい、より”真のイタリア” を知っていただきたいと切に願います。

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