ジャンカルロ・ビガッツィ
MUSIC 30 Sep 2021

イタリアン・ポップス界をけん引した偉人ジャンカルロ・ビガッツィ


トスカーナ特集KV

今秋のITALIANITYのテーマ「トスカーナ」に合わせて、州都フィレンツェ出身者で“フィレンツェ派”と呼ばれた音楽家集団を率いた音楽家(ジャンカルロ・ビガッツィ/ 1940-2012 / 71歳没)を紹介します。

ジャンカルロ・ビガッツィ

名作詞家としての側面が強いものの、作曲も行い、何よりも敏腕音楽プロデューサーとして数多のスター歌手の発掘&育成を手掛け、“歌手のデザイナー”の異名を取った、イタリア音楽界屈指の偉人と言える人物でした。

60年代の終わりから活動を始めると、いきなり大ヒット曲を放ち、以降も数々のヒット曲を輩出し続け、その多くの曲が今日までなお歌い継がれ続けるエヴァーグリーンな曲ばかりという驚異のヒットメーカーでした。

特筆すべきなのは、日本で“カンツォーネ”と呼ばれる時代の代表曲も手掛けながら、時代が求める楽曲のスタイルがガラッと激変した70年代以降も確かな存在感を示し、世界的なヒット曲も放ち続ける偉業を成し遂げたことです。いわば70年代以降から現在まで脈々と続く“イタリアン・ポップス”の道を切り開いた功績者とも言えます。

没後に建立されたビガッツィ像と愛弟子マルコ・マジーニ没後に建立されたビガッツィ像と愛弟子マルコ・マジーニ

2012年のビガッツィ没後、サンレモ音楽祭では彼の功績を称えて、従来の最優秀アレンジメント賞を2016年から“ジャンカルロ・ビガッツィ賞”と呼ぶことになりました。この“アレンジメント”とは編曲のことではなく、楽曲を構成する各要素(作詞・作曲・編曲・楽器構成など)をバランス良く配して、楽曲としての魅力を作り上げること、に主眼が置かれています。なるほど、ビガッツィの“歌のデザイナー”の側面にフィーチャーした賞、ということになるかと思います。

日本には彼に匹敵する存在が見当たらないのですが、敢えて例えるならば松本隆の作詞の才能と筒美京平の作曲能力、秋元康のプロデュース力が1人の人間に託されたような人物、と言っても過言ではないかもしれません。

筆者の私事ではありますが、今回ビガッツィ作品のプレイリストを作る過程を通して、彼の手掛けた代表曲のほとんどが、自分が“好き”のカテゴリーの範囲に入れる楽曲であり、多くの楽曲がソラで口ずさめることに驚きを覚えました。

そういえば筆者がまだイタリア語がひとつも判らなかった頃、たまたま彼が手掛けた楽曲を耳にし、いいかげんながらもマネして口ずさんで歌っているうちに、イタリア語を覚え始めていたことを思い出しました。彼の詞は、いわば筆者のイタリア語の教科書ともいえる存在だったのです。

プレイリスト収録曲詳細

1. 「Luglio(ルーリォ/ 意:7月)」(1968)
ビガッツィがまだ駆け出しだった28歳の時に放った最初の大ヒット曲。シンガーソングライターのRiccardo Del Turco(リッカルド・デル・トゥルコ)と共作し、夏の到来とひと夏の恋を予感させる絶妙な詞と、キャッチーなメロディが組み合わさり、すぐに初夏の定番ソングとなり、今日まで歌い継がれています。邦題は「冷たい太陽」。

2. 「Cosa hai messo nel caffè(コーザ・アイ・メッソ・ネル・カッフェ/ 意:コーヒーの中に何を入れたの)」(1969)
同じくリッカルド・デル・トゥルコと共作したサンレモ音楽祭出場曲。音楽祭での順位は振るわなかったものの、大ヒットを記録。今日までたくさんの歌手に歌い継がれていて、その中には日系ブラジル人歌手の小野リサも。邦題は「愛の妙薬」。
異性の家に招かれ、出されたコーヒーを飲んでいたら、うっとりしてしまった。コーヒーの中に何か入れられたのかも?例えそれが毒だったのなら死んでも構わない、君のそばにいれれば。という奇想天外なラヴソング。

3. 「Il carnevale(イル・カルネヴァーレ/ 意:謝肉祭)」(1968)
カーニヴァル(謝肉祭)で仮面舞踏会を楽しんでいる愛しい男性。その陰で失恋の哀しみに沈む女性。正体を隠す仮面をつけていても女性は男性が判るのに、男性は女性に気付きもしないという対比も見事。邦題は「カ-ニヴァル」。
この時代に“ビートの女王”の異名をとった時代の寵児にしてスーパーアイドルだったCaterina Caselli(カテリーナ・カゼッリ)が歌いました。彼女は後にレコード会社の御曹司と結婚して音楽プロデューサー&実業家に転身し、イタリア音楽界で数々の偉大な足跡を築き続けています。中でもAndrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)を育てたことがもっとも有名な実績ですね。

4. 「Lisa dagli occhi blu(リーザ・ダッリ・オッキ・ブルー/ 意:青い瞳のリーザ)」(1969)
学生時代から続いていた恋が終わる・・・という現実と、2人が2年B組だった頃の淡い想い出を重ね合わせた、美しくも切ない失恋ソング。邦題は「リーザの青い瞳」。歌ったMario Tessuto(マリオ・テッスート)の最大のヒット曲となりました。

5. 「Rose rosse(ローゼ・ロッセ/ 意:紅バラ)」」(1969)
イタリア音楽界最高峰の歌唱力を持ち、驚異のステージパフォーマンスで定評のあるショーマンであり続けるMassimo Ranieri(マッシモ・ラニエリ)最初のヒット曲。邦題は「紅バラを君に」。

6. 「Se bruciasse la città(セ・ブルチァッセ・ラ・チッタ/ 意:もし街が燃えたなら)」(1969)
ドラムとベースがロック調でギターがスパニッシュ。豊かな生のオーケストラの楽器群がかぶさる見事なアレンジの楽曲で、前曲同様、マッシモ・ラニエリの代表曲のひとつ。邦題は「街が燃えたなら」。
もうすぐ他の男と結婚してしまう愛しいひと。もし街が大火事になったなら、彼女の元に駆け寄っていけるのに。。。と苦悶する青年の気持ちが歌われています。当時のイタリア社会はまだ親や周囲の大人たちが結婚相手を決めていて、若者たちはそれに従わざるを得なかったという情勢がうかがい知れます。

7. 「Vent’anni(ヴェンタンニ/ 意:20歳)」(1970)
マッシモ・ラニエリの代表曲のひとつで、子供たちのコーラスが特徴的。歌詞の過去形が遠過去で書かれているのもポイント。この“遠過去形”は北部のイタリア人はあまり使わないものの、南部のイタリア人は日常的に使う表現ですので、歌い手のラニエリ(ナポリ人)に合わせて北部人のビガッツィが敢えて遠過去形で書いたと想像できます。邦題は「はたちの青春」。

8. 「Erba di casa mia(エルバ・ディ・カーザ・ミア/ 意:我が家の若草)」(1972)
当時サンレモ音楽祭と人気を二分していたCanzonissima(カンツォニッシマ / “最高の歌”の意の造語)1972優勝を果たしたマッシモ・ラニエリのヒット曲のひとつ。
邦題は「若草の朝」。

9. 「Un po’ per giorno(ウン・ポ・ペル・ジョルノ/ 意:日ごとに少し)」(1972)
巨匠エンニオ・モリコーネが作曲を手掛け、マッシモ・ラニエリが歌った楽曲。

10. 「L’amore è una colomba(ラモーレ・エ・ウナ・コロンバ/ 意:恋は雌鳩のよう)」(1970)
サンレモ音楽祭1970出場曲で、原題の“colomba”とはもともとの雌鳩の意味から転じて、“清純な乙女”という比喩表現で使われるのもポイントです。邦題は「恋は鳩のように」。当時はダブルキャスト制を採用していたため、オリジナル歌手が2人いて、そのうちのひとりがMarisa Sannia(マリーザ・サンニア)

11. 同じ楽曲でもうひとりのオリジナル歌手となるGianni Nazzaro(ジャンニ・ナッザーロ)の歌唱。日本でも「恋は鳩のように」の邦題でヒットし、いわゆる“カンツォーネの名曲”のひとつとなりました。

12. 「Non voglio innamorarmi mai(ノン・ヴォッリオ・インナモラルミ・マイ/ もう僕は恋をしたくない)」(1972)
引き続きジャンニ・ナッザーロの歌唱で、サンレモ音楽祭1972出場曲。彼の6回のサンレモ出場歴の中で最高の5位となりました。邦題は「恋の忘却」

13. 「Eternità(エテルニタ/ 意:永遠)」(1970)
サンレモ音楽祭1970で4位につけたヒット曲。ダブルキャスト制のオリジナル歌手ひとりがOrnella Vanoni(オルネッラ・ヴァノーニ)。60年代にデビューした歌唱力のある女性歌手“三大プリマドンナ”のひとりと目され、今も現役最高年代歌手のひとりです(87歳!)。邦題はそのまま「永遠」。

14. 同じ楽曲でもうひとりのオリジナル歌手となるのが、1963年から活動するイタリア最古参の現役バンドCamaleonti(カマレオンティ/ 意:カメレオンたち)。同じ曲なのにオーケストラアレンジを大胆に変えており、ヴァノーニのはいかにも“カンツォーネ”らしいのに対して、オーケストラの不協和音から始まるこのカマレオンティ版の方がツウ好みとなっています。

15. 「Come sei bella(コメ・セイ・ベッラ/ 意:なんて君は美しいのか)」(1973)
引き続きカマレオンティのヒット曲。邦題は「美しい君」。

16. 「Perché ti amo(ペルケ・ティ・アモ/ 意:君を愛しているから)」(1973)
引き続きカマレオンティのヒット曲。邦題は「愛する君」。

17. 「Lady Barbara(レイディ・バルバラ)」(1970)
60年代に人気ビートバンドProfeti(プロフェーティ/ 意:預言者たち)のヴォーカリストがRenato dei Profeti(レナート・デイ・プロフェーティ)の名義でソロに転向し、夏のディスク・フェスティヴァルでいきなり優勝を果たしたヒット曲。

18. 「Acqua e sapone(アックア・エ・サポ-ネ/ 意:水と石鹼)」(1970)
1970-71の間にビガッツィがプロデューサーを務めたビートバンドCaliffi(カリッフィ/ 意:カリフたち)の代表曲のひとつ。同バンドのリーダーと共作曲で、ビガッツィが作詞はせず作曲を担当しているのもポイント。ちなみにタイトル名はイタリア語ではよく使う表現で、“飾り気のない”、“素のままの”という表現です。

19. 「Montagne verdi(モンターニェ・ヴェルディ/ 意:緑の山々)」(1972)
Marcella(マルチェッラ)ことMarcella Bella(マルチェッラ・ベッラ)のブレイクのきっかけとなったサンレモ音楽祭出場曲で、邦題は「青い山脈」。作曲はマルチェッラの実兄で後に重鎮作曲家に成長するGianni Bella(ジャンニ・ベッラ)。以降70年代はビガッツィ=ベッラのコンビで多くのマルチェッラの楽曲を手掛けていきます。

20. 「Un sorriso e poi perdonami(ウン・ソッリーゾ・エ・ポイ・ペルドーナミ/ 意:ほほ笑んで私を許して)」(1972)
ヒットチャート4位まで登ったヒット曲で邦題は「ほほえみの扉」。ロックと生のオーケストラの音色をたっぷり盛り込んだ、今では贅沢なサウンドがこの時代のマルチェッラの楽曲の聴きどころです。イントロから不思議なフレーズで始まるギターは、サビの部分で予想外の裏メロを奏でているところも聴きどころ。

21. 「Io domani(イオ・ドマーニ/ 意:私は明日)」(1973)
マルチェッラの大ヒット曲。この時代のイタリアは不況が深刻になっていった時期と、学生運動などを通して古い慣習を壊して新しい生き方を模索していたこともあり、ラヴソングも不倫や三角関係の詞が流行しました。この時代にビガッツィがマルチェッラに提供した詞もほとんどが、報われない恋が多く、この曲も、“私は明日”彼に言うことは、「もうあなたを愛していない。あなたの代わりにあの人がいると告白するわ。」という内容。アグレッシヴなベースラインも聴きどころ。

22. 「Nessuno mai(ネッスーノ・マイ/ 意:誰も決して)」(1974)
イタリア初のディスコ・ミュージックのひとつと言われているマルチェッラの大ヒット曲で、チャート2位まで昇りました。この時代ならではのすべて生演奏という贅沢なサウンドで、ロックバンドの演奏もテクニカルなうえ、シンセサイザーと生のオーケストラの両方を使った巧みなアレンジが見事な楽曲です。邦題は「炎」。同年、ボニーMが英語でカヴァーしています。

23. 「Negro(ネグロ/ 意:黒人)」(1975)
よりロックサウンドを前面に押し出したダンサブルな楽曲で、マルチェッラ初のライヴアルバムに収録されたスタジオ録音曲です。
このライヴ盤は新曲ばかりのライヴという思い切った構成で、このアルバムで初めてマルチェッラのバックを務めて来たロックミュージシャンたちの名前がクレジットされ、それが後にIl Volo(イル・ヴォーロ)を結成する凄腕のスタジオ・ミュージシャンたちが一堂に会したライヴだったことが判り、長らくCD化されなかったこともあり、プログレファンたち垂涎のアルバムとなっていました。

24. 「Abbracciati (アッブラッチャーティ/ 意:抱き合って)」(1977)
サンレモ音楽祭にマルチェッラがゲスト出演した際に発表された楽曲。途中で掛け合う男性ヴォーカルの名はクレジットされていませんでしたが、この直後に世界的なブレイクを果たすUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)。邦題は「恋の逃亡者」。

25. 「Più ci penso(ピュー・チ・ペンソ/ 意:考えれば考えるほど)」(1974)
ジャンニ・ベッラが実妹マルチェッラへ数々のヒット曲を提供する実績を付けた後に、ソロシンガーソングライターとしてデビューした楽曲。引き続きビガッツィとの共作で邦題は「渇き」。

26. 「Non si può morire dentro(ノン・スィ・モリーレ・デントロ/ 意:人は中で死ぬことはできないもの)」(1976)
同年のフェスティヴァルバール優勝曲となり、10週間にわたってチャート首位を続け、ジャンニ・ベッラの最大のヒット曲となりました。邦題は「哀しく美しい君」。

27. 「Ancora innamorati(アンコーラ・インナモラーティ/ 意:再び恋人たちは)」(1976)
歌手&女優、番組MCなどで大活躍したLoretta Goggi(ロレッタ・ゴッジ)へ提供したヒット曲。スペイン語版も存在し、ドイツやギリシャでもリリースされています。

28. 「Slowly(スローリィ)」(1984)
同じくロレッタ・ゴッジへの提供曲ですが、ビガッツィが書いたいくつかの英語詞のひとつ。同年公開の映画「Giochi d’estate(ジョーキ・デスターテ/ 意:夏の遊び)」のテーマ曲となりました。

29. 「M’innamorai(ミンナモライ/ 意:君は僕に恋するだろう)」(1975)
同年から1978年にかけて、ビガッツィはポップグループGiardino dei Semplici(ジャルディーノ・デイ・センプリチ)のプロデューサーを務めて、彼らのデビュー曲となったのがこの曲。邦題は「秘めやかな想い」。同バンドはナポリ人が主体となっているものの、バンド名はフィレンツェに実在する植物園の名前。フィレンツェ出身のビガッツィが与えたグループ名であることがうかがい知れます。

30. 「Miele(ミエーレ/ 意:ハチミツ)」(1977)
同じくジャルディーノ・デイ・センプリチのヒット曲。リードヴォーカリストが2人いたバンドならではの歌い分けやコーラスワークも聴きどころ。

31. 「Ti amo(ティ・アーモ/ 意:君を愛している)」(1977)
この曲で、ついにビガッツィは世界進出を果たします。気鋭のシンガーソングライターUmberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ)と共作して発表すると、すぐに世界的なヒット曲となり、トッツィは英語圏からは“ミスター・ティ・アーモ”と呼ばれるほどの存在となり、後にLaura Branigan(ローラ・ブラニガン)に英語でカヴァーされます。
ビガッツィ-トッツィという態勢でトッツィのアルバム収録曲を丸ごと書き下ろし、トッツィの世界的な成功を基に、後に“フィレンツェ派”とか“フィレンツェ組”などと呼ばれる音楽集団を築き上げていくきっかけを築きます。

32. 「Tu(トゥ/ 意:君)」(1978)
翌年にトッツィが放った世界的ヒット曲第2弾。

33. 「Gloria/ グローリア/ 意:栄光」(1979)
3年連続となるトッツィの世界的大ヒット曲で、ローラ・ブラニガンによる英語カヴァー曲は、アメリカ、オーストラリア、カナダのチャートで首位を記録し、英語圏での大ヒットの決定打となりました。さらにはフランス語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語によるカヴァーも存在することから、世界中でヒットしたかが判ると思います。日本ではローラ・ブラニガンのヴァージョンだけがヒットしただけで終わってしまいました。

34. 「Gli altri siamo noi(リ・アルトリ・シァーモ・ノイ/ 意:他人さ僕らは)」(1991)
世界的な成功を成し得た後も、ビガッツィ-トッツィの創作意欲は衰えることはなく、人種差別やイタリアにおける移民の問題を提起したこの曲でトッツィはサンレモ音楽祭に出場し4位となりました。

35. 「Un amore grande(ウン・アモーレ・グランデ/ 意:ある偉大な恋)」(1984)
ビガッツィ-トッツィが中心となってPupo(プーポ)のために書き下ろした楽曲で、サンレモ音楽祭で4位に留まりましたが、大ヒットとなりました。

36. 「Self control(セルフ・コントロール)」(1984)
デビューアルバム全曲が英語詞という思い切った戦略を取り、同曲は世界21か国でのヒットを記録したRaf(ラフ)の出世曲となりました。ビガッツィは作曲側に回っているのも特筆ポイント。同年ローラ・ブラニガンがそのまま英語でカヴァー。ローラ・ブラニガンは82年にトッツィの「Gloria」、翌83年にトッツィの「Mama(ママ)」、84年にこの「Self control」とトッツィの「Ti amo」と3年連続でイタリアの、というよりまさにビガッツィの曲をカヴァーしてアメリカでスターダムにのし上がりました。

37. 「Cosa resterà degli anni ’80(コザ・レステラ・デッリ・アンニ・オッタンタ/ 意:80年代の何が残るのだろう)」(1989)
英語詞オンリーでデビューしたラフがイタリア語で歌う歌手に転向し、前年に続いて2度目のサンレモ音楽祭に出場した楽曲。大会での順位は15位と散々な結果に終わりましたが、ヒットチャートではめきめきと順位を上げ、チャート6位にまで登るヒット曲となりました。

38. 「Si può dare di più(スィ・プオ・ダーレ・ディ・ピュウ/ 意:もっと与えられる)」(1987)
同年のサンレモ音楽祭優勝曲に輝いた楽曲で、歌ったのはキャリアもタイプも違う3人の歌手、ウンベルト・トッツィ、Gianni Morandi(ジャンニ・モランディ)、Enrico Ruggeri(エンリコ・ルッジェーリ)の3人。ビガッツィの作詞に、トッツィラフが作曲を担当。

39. 「Gente di mare(ジェンテ・ディ・マーレ/ 意:海の人々)」(1987)
前出の曲でのサンレモ音楽祭優勝により同年のユーロヴィジョン・ソング・コンテスト出場権を得たものの、演者のトリオではなく、作者のトッツィラフの2人のデュオで新曲を披露することとなり、この曲でユーロヴィジョン出場して3位となりました。実はラフがイタリア語で歌った初めての曲がこの曲でした。ブラジルの歌手にポルトガル語でカヴァーされたヴァージョンも存在しています。

40. 「Ci vorrebbe il mare(チ・ヴォッレッベ・イル・マーレ/ 意:海が必要なら)」(1990)
Marco Masini(マルコ・マジーニ)の1stアルバム収録曲で、大歌手Milva(ミルヴァ)がカヴァーしたことで、大作と考えられるようになった楽曲。なお、マジーニは、ソロデビュー前の1988年、ウンベルト・トッツィがロンドンの由緒あるロイヤル・アルバート・ホールで行ったライヴにキーボーディスト&コーラスとして参加しており、前出の87年のトリオやデュオの楽曲はラフがゲスト・ヴォーカリストを務めるなど、まさにビガッツィ人脈が“フィレンツェ組”として機能していたことが判ります。

41. 「Vaffanculo(ヴァッファンクーロ/ 意:クソ野郎)」(1993)
ビガッツィがプロデューサーの才能を発揮し、放送禁止用語をそのままタイトルに据えた問題作。当時の芸能界が抱える問題点を皮肉交じりにヤジる歌詞となっており、同曲以降、“パロラッチャ(下品な言葉)で歌うマルコ・マジーニ”、というイメージを植え付ける発端となった楽曲でもあります。作曲もビガッツィが行い、マジーニが捕作詞で参加しています。

42. 「Bella stronza(ベッラ・ストロンツァ/ 意:美しいバカ女)」(1995)
マジーニの“パロラッチャ曲”の代表曲のひとつ。タイトルの原形“stronzo(ストロンツォ)”とは元々は排泄物の意味で、人に向かって発したら、最大の侮辱の言葉となってしまいます。その女性形なので、女性を揶揄していることになりますが、頭に“美しい”という言葉が付いていることと、この楽曲の雰囲気を聴けば、対象の女性をバカにしている訳ではなく、むしろ最大の愛情表現であることに気付くことでしょう。この曲もビガッツィが作曲も担当しています。

43. 「Gli uomini non cambiano(リ・ウォーミニ・ノン・カンビアノ/ 意:男たちは変わらない)」(1992)
同年のサンレモ音楽祭2位となった楽曲で、Mia Martini(ミア・マルティーニ)の圧倒的な歌唱力とその異様な歌詞と共に醸し出される凄みのあるパフォーマンスが印象的な楽曲です。後の時代の人間は、この3年後にミア・マルティーニが自殺することを踏まえて聴くことになる楽曲となりました。
ミア・マルティーニは死後、サンレモ音楽祭で最も権威のある副賞“批評家賞”にその名を冠されて“ミア・マルティーニ賞”と呼ばれることになります。

44. 「Non amarmi(ノン・アマルミ/ 意:僕を愛するな)」(1992)
サンレモ音楽祭1992新人部門で盲目のシンガーソングライターAleandro Baldi(アレアンドロ・バルディ)Francesca Alotta(フランチェスカ・アロッタ)のコンビで披露された楽曲で、後にJennifer Lopez(ジェニファー・ロペス)がスペイン語でカヴァーし、彼女のデビューアルバムに収録されたことで世界中に知られることとなりました。

45. 「Passerà(パッセラ/ 意:過ぎ去るだろう)」(1994)
サンレモ音楽祭1994でアレアンドロ・バルディが優勝に輝いた楽曲。マルコ・マジーニに“パロラッチャ曲”を与えている同時期にこんなにも美しいメロディと詞を持つ楽曲を手掛けているビガッツィの手腕に驚きを禁じ得ません。Spotifyには残念ながらアレアンドロ・バルディ版の収録がありませんでしたので、後にカヴァーし同曲を世界的ヒット曲にのし上げたIl Divo(イル・ディーヴォ)のカヴァー版を収録しておきます。

46. 「Un’apertura d’ali(ウナペルトゥーラ・ダリ/ 意:翼を広げて)」(2012)
ビガッツィの事実上の遺作となった楽曲で、作詞&作曲をBigazzi独りで手掛けており、ビガッツィ没年にその未発表曲だった同曲を発掘して正式に録音したのがRenato Zero(レナート・ゼロ)。ゼロの同年のツアーの序曲に必ず流され、言わばビガッツィ追悼曲のようになっていた楽曲です。

イタリアの情報が満載のメールマガジン登録はこちらをクリック
WRITER PROFILE
よしお アントニオ

音楽ジャーナリスト。イタリア音楽専門誌『MusicaVita Italia(ムジカヴィータ イタリア)』 http://musicavitaitalia.com/ 編集人。 イタリア音楽普及促進グループPiccola RADIO-ITALIA(ピッコラ・ラディオ・イタリア) http://piccola-radio-italia.com 主宰。 毎月開催のイタリアPOPSフェスタも15年を超えている。イタリアン・ポップス出版物(CD等)の歌詞監修・対訳多数。日本の伝統も重んじる剣道家(四段)でもあり、少年剣道教室の指導役も務めている。