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ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト2022、31年ぶりにイタリア開催!

ユーロヴィジョン・ソング・コンテストとは?

かつてABBA(アバ / スウェーデン代表)やセリーヌ・ディオン(カナダ出身ですがスイス代表として参加)が優勝した後に大ブレイクして、国際的なスターとなったことで知られているのが、ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト(以下、ユーロヴィジョン)。1956年にから毎年開催続けられています。※2020年のみコロナ禍のため中止となりました。


文字通りヨーロッパ各国から出場者を選出して優勝を争う国際コンクールでありますが、出場国はトルコやアゼルバイジャンなど、中近東や旧ソ連圏などにまで拡大しています。


ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト2022

2021年にイタリア代表のマネスキン優勝により、2022年大会は31年ぶりの3度目のイタリア開催(トリノ)となりました。


予選は5月10~11日で決勝戦は5月15日(日)。どちらも現地時間なので日本は翌日の早朝時間帯がリアル時間帯となります。


司会はTVやラジオMCとして活躍するアレッサンドロ・カッテランに大歌手となったラウラ・パウジーニ、そして現在はイタリアを拠点にして活動するレバノン出身歌手ミーカ。番組進行は英語またはフランス語の使用と定められているので、英仏伊を流暢に使いこなすミーカの存在が大きな役割を果たすことでしょう。


その前のイタリア開催は1991年のローマ大会ですが、当時の映像では、各国の出場歌手がイタリアのヒット曲をイタリア語で歌うシーンが盛り込まれていたのが見どころでしたが、さて2022年大会はどうなるでしょうか?


2022年大会のイタリア代表

1. Mahmood(マムッド) e Blanco(ブランコ)「Brividi(ブリーヴィディ / 意:おののき)
2人の若手ソロシンガーがタッグを組んでサンレモ音楽祭2022優勝を勝ち取った美しい楽曲です。Mahmoodは2019年にユーロヴィジョン初参加しているので2回目の出場となります。



サンレモ音楽祭2022優勝はマムッド&ブランコ!
CULTURE

サンレモ音楽祭2022優勝はマムッド&ブランコ!

よしおアントニオ / 2022.02.15


イタリアの3度の優勝曲

イタリアは過去3回の優勝歴があり、その翌年はイタリアでユーロヴィジョン開催となりました。(2022年はトリノ、1991年はローマ、1965年はナポリ)


2. 2021年 Måneskin(マネスキン)「Zitti e buoni(ジッティ・エ・ブォーニ / 意:黙っていい子にしてな)」
このユーロヴィジョン優勝をきっかけに世界中でブレイクを果たしたマネスキン。2022年夏に来日も決定しています。


3. 1990年 Toto Cutugno(トト・クトゥーニョ)「Insieme: 1992(インシェーメ:ミッレノヴェチェントノヴァンタドゥエ / 意:一緒に:1992年)」
同年のサンレモ優勝者Pooh(プー)がユーロヴィジョン出場権を放棄。その代わりに1987年から4年連続で2位につけていたトト・クトゥーニョがサンレモ曲ではない新曲でユーロヴィジョンに参加し、優勝を勝ち取りました。


4. 1964年 Gigliola Cinquetti(ジリオラ・チンクェッティ)「Non ho l’età (ノノ・レタ / 意:年端もゆかない)」
サンレモ音楽祭初出場でいきなり優勝して、ユーロヴィジョンでもそのまま優勝という初のW優勝という記録を打ち立て、一躍、インターナショナルな歌姫となったジリオラ・チンクェッティ。当時の日本でも、「彼女の歌が(TVやラジオから)流れない日はなかった」と言わしめるほどの大スターとなりました。



イタリアの歴代参加曲(優勝曲除く)

5. 2020年未開催 Diodato(ディオダート)「Fai rumore(ファイ・ルモーレ / 意:物音を立ててくれ)」
コロナ禍により、残念ながらユーロヴィジョン初の未開催年となってしまい、ディオダートのユーロヴィジョン出場は実現しませんでした・・・。


6. 2019年2位 Mahmood(マムッド)「Soldi(意:カネ)」
同年のサンレモ音楽祭は、新人部門なしとなり、新人でも総合優勝を狙えるルールとなったため、本来新人部門枠のマムッドがいきなり優勝するという、大番狂わせが起こりました。


7. 2018年5位 Ermal Meta(エルマル・メータ) e Fabrizio Moro   (ファブリツィオ・モーロ)「Non mi avete fatto niente(ノン・ミ・アヴェーテ・ファット・ニエンテ / 意:君らは僕に何もしてくれなかった)」
当時のヨーロッパが直面していた、イスラム過激派によるテロ事件を歌った楽曲。


8. 2017年6位 Francesco Gabbani(フランチェスコ・ガッバーニ)「Occidentali’s Karma(オッチデンタリーズ・カルマ / 意:西洋の業[ごう])」
東洋思想や仏教用語、進化論・退化説などの用語が散りばめられた哲学的でありながらノリの良い楽曲。


9. 2016年16位 Francesca Michielin(フランチェスカ・ミキェリン)「No Degree of Separation [Nessun grado di separazione](ネッスン・グラード・ディ・セパラツィオーネ / 意:無次の隔たり)」
同年のサンレモで2位につけたフランチェスカ・ミキェリンが出場。ネット社会が進む中で話題となった “友だちの友だちを6回辿ると世界の人口を超えてしまう”という《六次の隔たり理論》をモチーフに、“あなたと私の間には隔たりなんてない”と歌っています。ユーロヴィジョン出場の為に、2番のサビを英語で歌っています。


10. 2015年3位 Il Volo(イル・ヴォーロ)「Grande amore(グランデ・アモーレ / 意:偉大な愛)」
アメリカのタレント発掘TV番組『アメリカン・アイドル』に出場して、いきなり世界中に知れ渡ったオペラティック・ヴォーカル・トリオが、母国に凱旋してサンレモ音楽祭優勝という最大の栄誉を勝ち取った楽曲です。


11. 2014年21位 Emma(エンマ)「La mia città(ラ・ミア・チッタ / 意:私の街)」
この年はサンレモ音楽祭出場者の中からユーロヴィジョン出場者を選ばず、別途内部選考の結果、エンマ(サンレモ2012優勝者)がイタリア代表として出場しました。


12. 2013年7位 Marco Mengoni(マルコ・メンゴーニ)「L’essenziale(レッセンツィアーレ / 意:かけがえのない人)」
オーディション番組に出場して注目を集め、既に頭角を現し始めていたマルコ・メンゴーニの全国的なブレイクを決定づけた楽曲です。


13. 2012年9位 Nina Zilli(ニーナ・ズィッリ)「L’amore è femmina [Out of Love](ラモーレ・エ・フェッミナ / 意:恋は女なの)」
同年のサンレモ音楽祭で7位にとどまったニーナ・ズィッリにユーロヴィジョン出場権が与えられました。さらにニーナはサンレモ出場曲ではなく、オリジナルヴァージョンはイタリア語詞のこの楽曲を、英語詞を交えたヴァージョンにして披露しました。


14. 2011年2位 Raphael Gualazzi(ラファエル・グァラッツィ)「Follia d’amore [Madness of Love](フォッリア・ダモーレ / 意:恋の狂気)」
13年間ぶり、かつ21世紀初のイタリア代表となったのは、同年のサンレモ音楽祭の新人部門優勝者となったラファエル・グァラッツィ。さまざまな要素を鑑みても、この人選はまさに的を得ていたと思えます。


15. 1997年4位 Jalisse(ジャリッセ)「Fiumi di parole(フューミ・ディ・パローレ / 意:言葉の流れ)」
20世紀最後のイタリア代表となったのは夫婦デュオのジャリッセ。この後イタリアは13年もの間、ユーロヴィジョン不参加を決め込みました。


16. 1993年12位 Enrico Ruggeri(エンリコ・ルッジェーリ)「Sole d’Europa(ソーレ・デウロパ / 意:ヨーロッパの太陽)」
サンレモ初のロックな優勝曲とは異なるバラード曲でユーロヴィジョンに挑みました。次第にロックテイストのギターが入ってきたり、フランス語詞が混じったり、子供のコーラス隊が入るなど、ヴァリエーションある展開の楽曲です。この後3年間、イタリアはユーロヴィジョン不参加となります。


―. 1989年9位 Anna Oxa(アンナ・オクサ) e Fausto Leali(ファウスト・レァーリ)「Avrei voluto(アヴレイ・ヴォルート / 意:私は欲しがっていたことでしょう)」
同年のサンレモ音楽祭の優勝者となった2人のソロ歌手の企画デュオですが、サンレモ優勝曲とは異なるこの楽曲でユーロヴィジョンに出場しました。残念ながらSpotifyに楽曲登録がありませんでした。翌年は再びイタリアはユーロヴィジョン不出場となります。


―.1988年12位 Luca Barbarossa(ルカ・バルバロッサ)「Ti scrivo [Vivo](ティ・スクリーヴォ [ヴィーヴォ](意:君に手紙を書くよ [僕は生きている]))」
同年のサンレモ音楽祭で3位となったルカ・バルバロッサが、サンレモ出場曲とは異なるこの楽曲でユーロヴィジョンに出場しました。残念ながらSpotifyに楽曲登録がありませんでした。


18. 1987年3位 Umberto Tozzi(ウンベルト・トッツィ) e Raf(ラフ)「Gente di mare(ジェンテ・ディ・マーレ / 意:海の人々)」
同年のサンレモ音楽祭優勝を飾ったソロシンガー3名の企画トリオの中心人物ウンベルト・トッツィが共作者のラフとのコンビで、サンレモ優勝曲と異なる楽曲でユーロヴィジョンに出場し大ヒットしました。英語圏でヒットを放っていたラフの初のイタリア語のオリジナル曲となり、以降のラフはイタリア語で歌う歌手にシフトするきっかけとなりました。


19. 1985年7位 Al Bano(アル・バーノ) e Romina Power(ロミナ・パワー)「Magic, Oh Magic
前年のサンレモ優勝となったオシドリ夫婦デュオを2度目のユーロヴィジョンに送りました。当時の彼らは全欧で大ヒット曲をいくつも持つスーパースター。翌年はユーロヴィジョンにイタリアは出場しませんでした。


20. 1984年5位 Alice(アリーチェ) e Franco Battiato(フランコ・バッティアート)「I treni di Tozeur(イル・トレーノ・ディ・トゼール / 意:トズールの列車)」
1981年のサンレモ音楽祭優勝者となったアリーチェとその師匠にして後にイタリア音楽界のレジェンドとなるフランコ・バッティアートとのコンビで出場。この楽曲は彼らのデュエット曲の中で一番有名な楽曲となりました。“トズール”とはアフリカのサハラ砂漠の北に位置する(チュニジア内)オアシス都市。


21. 1983年11位 Riccardo Fogli(リッカルド・フォッリ)「Per Lucia(ペル・ルチア / 意:ルチアに)」
前年のサンレモ音楽祭優勝者リッカルド・フォッリがユーロヴィジョンに送られました。元Pooh(プー)のベース&ヴォーカルだったリッカルドがソロ歌手として確かな存在を築いた時期となりました。70年代から80年代にかけて、数々のアーティストをプロデュースし、数々の名曲を提供したマウリティオ・ファブリツィオの書き下ろした楽曲です。


22. 1980年6位 Alan Sorrenti(アラン・ソッレンティ)「Non so che darei(ノン・ソ・ケ・ダレイ / 意:何を与えればいいのか判らない)」
70年代の後半から80年代にかけて空前のディスコブームに沸いたイタリア。そのきっかけとなったのがこのアラン・ソッレンティ。元はプログレ界で暗い音楽を奏でていた彼がダンス音楽に転身し、大ブレイクしたのが77年。米伊ハーフの彼は英語歌唱も得意で、イタリア語原曲も英語カヴァーもリリースし、米の凄腕ミュージシャン(Toto人脈)がバックを務めた洗練されたサウンドで一時代を築きました。残念ながら大ヒットしたオリジナルヴァージョンはSpotifyにないため、後の再録音版をプレイリストに入れておきます。翌年イタリアは初めてユーロヴィジョン不参加を決め、それは2年間に及びました。


―. 1979年15位 Matia Bazar(マティア・バザール)「Raggio di luna(ラッジョ・ディ・ルーナ / 意:月光の一筋)」
前年のサンレモ音楽祭優勝バンドがイタリア代表として出場しました。残念ながらこの楽曲はSpotifyに登録がありませんでした。
当時の日本ではすっかりイタリアのポップスが下火となってしまっていましたが、この少しあと、彼らの曲は日本でCMに何度も採用されたり、リアルタイムに新譜がリリースされていた貴重な存在でした。


23. 1978年12位 Ricchi e Poveri        (リッキ・エ・ポーヴェリ)「Questo amore(クエスト・アモーレ / 意:この愛)」
近年のサンレモ音楽祭出場者ではないグループをイタリア代表に選出。1974年にユーロヴィジョンで優勝して世界中でブレイクしたABBA(アバ)に対して、ABBAがお手本としていた本家本元のイタリアを代表する男女グループを全欧に披露しようとしていたのかもしれませんね。


24. 1977年13位 Mia Martini(ミア・マルティーニ)「Libera(リベラ / 意:自由な女)
サンレモ音楽祭とは関係なく、イタリア代表にミア・マルティーニを選出。70年代のイタリアを代表するディーヴァとしてお披露目する目的が垣間見えます。


25. 1976年7位 Al Bano(アル・バーノ) e Romina Power(ロミナ・パワー)「We’ll Live It All Again
サンレモ音楽祭とは関係なく選ばれた夫婦デュオの最初のユーロヴィジョン。ロミナ・パワーの母国語は英語なので(米俳優タイロン・パワーの娘)、ユーロヴィジョンに合わせて英語詞の歌で出場しました。(この時期は母国語以外の歌唱が認められていたルールでした)
オリジナルヴァージョンはSpotifyになかったので、再結成時のライヴ音源を入れておきます(2017)。その再結成ツアーはロシアを皮切りに行われたことからも、いかに彼らが全欧のスターなのかがうかがい知れるかと思います。


26. 1975年3位 Wess(ウェス) e Dori Ghezzi(ドリ・ゲッツィ)「Era(エラ / 意:時代|ギリシャ神話ヘラ|~だった)」
こちらは夫婦ではない男女デュオですが、70年代のイタリアを代表する男女デュオのひとつとしてブレイクしました。歌のタイトルは、“時代”・“ヘラ(ギリシャ神話の天の女神)”動詞の近過去で“~だった”などの意味を二重・三重に持たせていると思われます。ドリ・ゲッツィはデュオ解消後、イタリア人の心の偉人であり続けるシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレの後妻となり、未亡人になった今も、彼に捧げるイヴェントの度にキーパーソンとしての活動を続けています。


―. 1974年2位 Gigliola Cinquetti(ジリオラ・チンクェッティ)「(スィー / 意:はい)」
ユーロヴィジョンでイタリア初優勝(しかもサンレモ音楽祭とダブル優勝)のレコードホルダーであり、世界中の歌姫となったジリオラ・チンクェッティの2度目&10年後のユーロヴィジョン出場曲は、大人になった彼女の魅力を引き出したツウ好みのヒット曲となりました。残念ながらSpotifyに登録がありませんでした。


27. 1973年13位 Massimo Ranieri(マッシモ・ラニエリ)「Chi sarà con te(キ・サラ・コン・テ / 意:君といるのは誰になるかな)」
バツグンの歌ウマ歌手マッシモ・ラニエリの2度目&2年ぶりのユーロヴィジョン出場となりました。このあと、時代はシンガーソングライターの時代に突入してゆき、曲を書かない歌手には新曲が回ってこない&活躍の場がなくなる時代となり、これだけの歌唱力を持つマッシモ・ラニエリは歌手活動を辞めて映画俳優に転身してしまいます。彼の歌手活動再開は1988年のサンレモ音楽祭優勝まで待たなければならなくなります。


28. 1972年6位 Nicola Di Bari(ニコラ・ディ・バリ)「I giorni dell’arcobaleno(イ・ジョルニ・デッラルコバレーノ / 意:虹の日々)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲で、シンガーソングライターのニコラ・ディ・バリは2年連続のサンレモ音楽祭優勝に輝きました。少女が大人の女に変わっていく瞬間を美しく切り取って描き出した歌です。


29. 1971年5位 Massimo Ranieri(マッシモ・ラニエリ)「L’amore è un attimo(ラモーレ・エ・ウン・アッティモ / 意:恋は瞬間)」
1969年のサンレモ音楽祭出場で脚光を浴びた20歳の歌ウマ歌手がイタリア代表に。60歳以降になっても三浦大地も真っ青になるぐらい、踊りながら歌うステージを見せてくれます。腹筋運動しながら歌うパフォーマンスも。


30. 1970年8位 Gianni Morandi           (ジャンニ・モランディ)「Occhi di ragazza(オッキ・ディ・ラガッツァ / 意:少女の瞳)」
サンレモに出場せずにスターとなっただけでなく、世界中のアイドルとなった稀有な存在で、以後ずっとイタリアでトップスター&永遠の青春アイドルとして長いキャリアを続けています。この楽曲は後にレジェンド・シンガーソングライターとなるルーチォ・ダッラが名作詞家らと共に書き下ろしたヒット曲で、今ではエヴァ―グリーンな楽曲になっています。


31. 1969年13位 Iva Zanicchi(イヴァ・ザニッキ)「Due grosse lacrime bianche(ドゥエ・グロッセ・ラクリメ・ビアンケ / 意:2すじの大きな白い涙)」
同年のサンレモ音楽祭優勝者のひとりで、サンレモ曲とは異なるこの楽曲でユーロヴィジョンに出場しました。楽曲を書いた名匠ピエロ・ソッフィーチと共に70年代に来日公演も行っています。彼女は後の専業歌手不遇の時代は女優や司会業に転身し、政治家にもなりました。21世紀になってから、政治活動と並行して歌手活動も少しずつ再開し、直近は82歳にしてサンレモ2022に再出場しています。


32. 1968年10位 Sergio Endrigo(セルジョ・エンドリゴ)「Marianne(マリアン)」
同年のサンレモ音楽祭優勝者のひとりにして優勝曲作曲者が優勝曲と異なるこの楽曲でユーロヴィジョンに出場。名匠ジャンカルロ・ビガッツィとの共作曲です。


―. 1967年11位 Claudio Villa(クラウディオ・ヴィッラ)「Non andare più lontano(ノン・アンダーレ・ピュウ・ロンターノ / 意:もう遠くに行かないで)」
1950年代から60年代にかけて大スターに君臨したクラウディオ・ヴィッラが同年のサンレモ音楽祭で4度目の優勝(史上最多タイ記録)を果たし、イタリア代表としてユーロヴィジョンに2度目の参加を果たしました。サンレモ優勝曲と異なるこの楽曲で出場したのですが、残念ながらSpotifyに楽曲が見当たりませんでした。


33. 1966年17位 Domenico Modugno(ドメニコ・モドゥーニョ)「Dio come ti amo(ディオ・コメ・ティ・アモ / 意:あぁ私はなんと君を愛していることか)」
ドメニコ・モドゥーニョのサンレモ史上最多4度目の優勝曲(タイ記録)となった楽曲で、もちろん自作曲です。同曲を歌い分けたジリオラ・チンクェッティのヴァージョンと共に、まさに“カンツォーネの代表曲”と言える楽曲です。


34. 1965年5位 Bobby Solo(ボッビー・ソロ)「Se piangi se ridi(セ・ピアンジ・セ・リーディ / 意:もし君が泣くなら、もし君が笑うなら)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲&優勝者&作曲者のボッビー・ソロがイタリア代表として出場。


35. 1963年3位 Emilio Pericoli(エミリオ・ペリ-コリ)「Uno per tutte(ウーノ・ペル・トゥッテ / 意:全女性のための1人の男)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲で優勝者のひとりエミリオ・ペリ-コリがイタリア代表に。ちなみにもうひとりの優勝者は作曲者でもあるトニー・レニス。彼は70年代に渡米し、歌手活動と並行してプロデュース業で才能を開花させ、イタリアとアメリカの架け橋となる活動に邁進し、アメリカでもっとも有名なイタリア人のひとりとなりました。アンドレア・ボチェッリがアメリカで成功したのには、彼の尽力がなかったら叶わなかったと言われています。


36. 1962年9位 Claudio Villa(クラウディオ・ヴィッラ)「Addio addio(アッディオ・アッディオ / 意:さようなら、さようなら)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲であり、優勝者のひとりのクラウディオ・ヴィッラがイタリア代表になりました。サンレモで同曲を歌い分けたのは作曲者でもあるドメニコ・モドゥーニョで、両者にとって3度目のサンレモ優勝となりました。ちなみに“アッディオ”とは、もう2度と会わない・会えない時にのみ使う決別の言葉です。愛し合う者たちが決別する瞬間を描き出した傑作です。


37. 1961年5位 Betty Curtis(ベッティ・クルティス)「Al di là(アル・ディ・ラ / 意:彼方に)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲&優勝者のベッティ・クルティスがイタリア代表に。“アル・ディ・ラ”とは単に“向こうの方に”というよりも、“はるか彼方に”とか、“人跡未踏の地”転じて“あの世”といったニュアンスを持った表現です。作詞したモゴールは70年代にイタリア音楽の流れをガラッと変えたルーチォ・バッティスティとの共作を手掛け、あらゆるイタリア人の心に彼が紡ぎ出したフレーズがあると言われる偉大な作詞家となります。


38. 1960年8位 Renato Rascel(レナート・ラシェル)「Romantica(ロマンティカ / 意:ロマンティックな女性)」
レナート・ラシェルはツウ好みのシンガーソングライターで、同曲でサンレモ音楽祭優勝し、イタリア代表となりました。サンレモで同曲を歌い分けたTony Dallara(トニー・ダッララ)は当時シーンに登場して席巻したウルラトーレ(シャウト歌手)の代表格なので、ラシェルのまさにロマンティックな歌唱と対象的ながら、どちらのヴァージョンも素敵なので、まさにこの時代のサンレモ音楽祭の思惑(レコードが2倍売れる!)にぴったりの楽曲です。


39. 1959年6位 Domenico Modugno(ドメニコ・モドゥーニョ)「Piove [ciao ciao bambina](ピオーヴェ [チャオ・チャオ・バンビーナ] / 意:雨が降る [さようなら愛しい君])」
2年連続でサンレモ音楽祭に優勝したドメニコ・モドゥーニョの自作曲にして、2曲連続で世界的なヒット曲となりました。


40. 1958年3位 Domenico Modugno(ドメニコ・モドゥーニョ)「Nel blu dipinto di blu [Volare](ネル・ブル・ディピント・ディ・ブル [ヴォラーレ] / 意:青で描かれた青の中で)」
同年のサンレモ音楽祭で優勝すると世界中で大ヒットを記録し、イタリアを世界のヒット曲発信地に変えた革命的な楽曲です。翌年、アメリカでグラミー賞を獲得してその地位を決定づけました。ちなみにイタリア語詞の楽曲が総合のグラミー賞を獲得したのは最初で最後(今のところ)となっています。


41. 1957年6位 Nunzio Gallo(ヌンツィオ・ガッロ)「Corde della mia chitarra(コルデ・デッラ・キタッラ / 意:ギターの弦)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲で優勝者のひとりヌンツィオ・ガッロがイタリア代表に。もうひとりの優勝者はクラウディオ・ヴィッラ(2回目の優勝)でした。愛しい女性を前にして手が震えてギターがうまく弾けない、と歌っていますが、この“女性”はおそらく“音楽”のことだと想像できます。“音楽(ムジカ)”は女性名詞なので。素晴らし過ぎる音楽を前にすると中途半端な演奏者は太刀打ちできないというプレイヤーあるあるの話でしょうか。


42. 1956年順位なし Tonina Torrielli(トニーナ・トッリエッリ)「Amami se vuoi(アーマミ・セ・ヴォイ / 意:よかったら私を愛して)」
同年のサンレモ音楽祭で2位になった曲で歌ったトニーナ・トッリエッリが2人のイタリア代表のひとりとしてユーロヴィジョンに出場しました。


1956年順位なし Franca Raimondi(フランカ・ライモンディ)「Aprite le finestre(アプリーテ・レ・フィネストレ / 意:窓を開けてね)」
同年のサンレモ音楽祭優勝曲。記念すべきユーロヴィジョン第1回大会は、同音楽祭が“お手本”としたサンレモ音楽祭からは2人のイタリア代表を送るという貫録を見せました。優勝者のフランカ・ライモンディは “サンレモ史上初の一発屋”というレッテルが貼られてしまうことになりますが、この優勝曲はそれに値するに充分な大ヒット&ロングセラーを続け、春の到来とともに思い出される代表曲のひとつであり、近年のコロナ禍ではまさにぴったりのタイトルを持つ曲としてプチリバイバルしました。