2月14日のヴァレンタインデーにまつわる伝説は数多くあります。最もよく知られているのは聖人ヴァレンタインの殉教日にちなんでいるという説、またはローマ時代から豊穣や愛を祝うための儀式が2月中旬にあったことが起源という説もあります。
イタリアをはじめ、ヨーロッパ文化圏で使われる「愛」という言葉のもつ意味は、男女間の恋だけではなく、もう少し広義な意味を含んでいます。「慈悲」、「無条件の絶対愛」、「無償の愛」と訳したらよいでしょうか。キリスト教用語でいうと、この「愛」は「アガペー」といいます。
「アガペー」には、いくつかの「愛」があると古代ギリシア人は考えていました。「恋する気持ち」や「肉体の愛」は、「エロース」と呼ばれていました。この「エロース」の「愛」は、ギリシア神話の一つ「エロースとプシュケ」のエピソードに表されています。
プシュケという人間の美しい娘と神のエロースが、さまざまな逆境をのり越えて、愛(エロス)と精神が結ばれるという寓話です。ギリシア時代のエロース神には背中に翼がついていただけでしたが、やがてその姿に弓や矢をもたせ、愛のキューピットとしてシンボル化して使用されています。
神話「エロースとプシュケ」で最も象徴的なシーンは、意識を失っていたプシュケにエロースがキスをするシーン。多くの芸術家が、絵画や彫刻のテーマとしてきました。
イタリア人彫刻家アントニオ・カノーヴァによる「エロースとプシュケ」という有名な作品があります。プシュケの顔の向きは天に向かう愛の「エロース」、プシュケにキスをしようとするエロースは天から地上へ向けた人間への愛「アガペー」として具現化されています。「神と人間の融合」を表現しているといわれています。
ミラノで活躍した画家フランチェスコ・アイエツは、「キス」というタイトルで作品を残しました。この絵が描かれたのは1859年、第二次イタリア独立戦争が起きた年。人目につかない場所で慌ただしくキスをする様子がロマン主義のスタイルで描かれています。社会が大きく変化する激動の日々の隙間にできた一瞬こそ、実は最も価値があるとも解釈できます。
20世紀初めにローマで活躍した彫刻家ジョバンニ・プリーニも、「エロースとプシュケ」を連想させるような「恋人たち」という作品を残しています。当時、都市は巨大化し、人々の生活や精神も大きく変化せざるを得なかった時期。女性の裸体の無気力さは、そんな社会変化を危惧しているようです。
神話「エロースとプシュケ」は美しい寓話ですが、古代ギリシアの哲学者や政治家にとって、「エロース」は人間の幸福や社会のバランスを破壊する危険な存在。プラトンも性愛を敵視していました。
2500年後の現代になっても、「エロース」へ導かれそうな場所、空間、作品の表現は大きな力でもって制御されています。長引くコロナの影響で、恋人たちは触れあうのはおろか、オフィシャルに会う場所すらなくなってしまいました。生身の肉体をもつ人間はこんなにも脆い存在だったと思い知らされるのと同時に、「肉体」を超えた「愛」の強さ、もっと崇高な愛「アガペー」を求められている試練の時です。
南イタリアで活動する新進画家ロベルト・フェッリの作品「イル・リート(儀式)」。カラヴァッジョの影響を受けていると画家本人が公言しているとおり、暗い室内に浮き上がる2人の肉体。
20世紀までの芸術家とは異なり、男女の位置が入れ代わっているのも興味深いですが、写実的な抱擁シーンはコロナ禍のイタリアでは心を打たれるものがあります。
アート作品に描かれ続けてきた「エロース」を古代から現代まで辿っていくと、「愛」に到達するための試練は繰りかえされてきていることが分かります。
身体を外部から封印できても、精神までを閉じ込めることはできませんでした。アーティストはそれを表現し、古代ギリシア人が考えたような、その先にある「崇高な愛のかたち」を私たちに示唆してくれます。