特集「イタリア発のデザイン」より、フィレンツェからファッション界のレポートをお届けします。
世界屈指のメンズモード見本市「ピッティ・イマージネ・ウオモ」が、2024年6月11日から14日まで市内のバッソ城塞で開催された。第106回である今回は、国内外の790ブランドが主に2025年春夏コレクションをいち早く展開。期間中に訪れたバイヤー、インフルエンサー、そして報道関係者は約15,000人にのぼった。次なるトレンドは? そして近年カジュアル志向を牽(けん)引してきた、あのアイテムはどうなるのか? というのが本リポートの話題である。
リゾート、そしてワイルド
ピッティでは秋冬・春夏とも大会テーマが定められる。今回は「PITTI LEMON」だ。オーガナイザーは、レモンをこう定義する。
「(味も色も)テイスティで、(常に新しいものを欲している者の)喉を潤し、(ブーストを求めている人に)活力を与え、(饒舌になるのを我慢するために)収れん作用があり、(若さを維持したい者に)抗フリーラジカル作用がある」。さらにレモンは、ルネサンス期のギルランダイオから19世紀のマネ、20世紀のピカソ、リキテンスタインにいたるまで、さまざまなアーティストによっても描かれてきた、とする。
ともあれ、今回の潮流を見てみよう。良質な伝統的仕立てを活かしつつ、より快適、かつ多様な方向に傾倒してきた近年の傾向は、さらに加速していた。
まずは毎回ピッティで最も広いブースを展開する「ブルネロ クチネリ(BRUNELLO CUCINELLI)」。「柔らかく軽やかなパステルカラーとニュートラルカラー、あるいはイングリッシュホワイトを中心にした白とオフ白のグラデーション&ダークブラウンで。リゾートなムードとテーラリングが融合した」と解説している。イタリア人スタッフのひとりは、「快適さとエレガンスの両立は、常に私たちのブランドの大切な性格です」と語った。
「サルトリオ・ナポリ(Sartorio Napoli)」は、4ポケットのサファリジャケットに加え、ダメージドのジーンズ生地“テキサス”シャツを揃えた。前者はさまざまなメンズブランドによって近年、試みられてきたものを継承していると言える。後者はクラシコの世界で、ちょっとした挑戦と言えよう。
リゾート感覚とワイルドさ。意図されたとは到底思えないが、奇しくも「レモン」のイメージとシンクロナイズしている。
100年前のスポーツシューズを復刻
ところで、イタリアでもスニーカーの普及は目覚ましい。大学の卒業に必要な口頭試問で、学生はスーツにスニーカー、そればかりか担当主査の教授もスニーカーというシーンさえ珍しくなくなった。筆者自身も思い起こせば、かなりフォーマルなイベントでもドレスコードが「スマートカジュアル」であることが多くなったこともあり、スニーカーで済ませることが大半となった。データプラットフォーム「スタティスタ」は、世界のスニーカー市場が2024年から2028年に5.18%成長すると推定している。
いっぽうで、スニーカー市場に黄信号が点灯していることも事実だ。フランスのスニーカー販売プラットフォーム「キキキックス」は2023年に閉鎖された。北米ではスニーカー通販で頭角を現したインターネットサイト「ストックX」が他商品の扱いを増やしているのも市場の鈍化を暗示している。
情報が錯綜するなかで、イタリアのハイエンドなスポーツシューズ・ブランドは、どう判断しているのか? ピッティの会場を巡ってみた。
最初は北東部パドヴァの「ヴァルスポルト(Valsport)」である。創業1920年にさかのぼる同社はかつて名門サッカーチーム「ユベントス」のサプライヤーでもあった。また、F1ドライバーのジョディ・シェクターによっても愛用された。1990年代、市場の低価格志向で伸び悩んだが、今日は新しい出資者のもとにある。スタッフは「快適さに加え、色彩の多様さはスニーカーでのみ実現できるもの。これからも人々に愛されるでしょう」と語る。
同時に彼らは会場で「原点回帰」を提示した。創業者アントニオ・ヴァッレが1920年にパドヴァで創業したときのモデルを復刻。筆者が観察したところ、ブラック&ホワイトのシンプルさが時代を物語っている。いっぽうでそのフォルムは1世紀前のものとは思えぬほど洗練されている。傍(かたわ)らで1980年代のテニスシューズに着想を得たプロダクトも次期商品に加えた。
靴底も含め、協力工房から納められるパーツもすべてイタリア国内製であると胸を張る。一見当たり前に思えるだろうが、伝統技術を継承する職人がけっして潤沢ではない今日、実は容易ではない。そうすることで、職人たちの間で隅々までコントロールが行き届く。それこそメイドイン・イタリーが称賛される理由であると話す。
初任給で迷わず靴を買う
いっぽう中部トスカーナ州ピストイアの新進ブランド「ロー・ホワイト(Lo.White)」のブースも訪ねてみた。
オーナーのセルジョ・トリコーミ氏は63歳。「子どもの頃から靴が好きでした。初任給で買ったのも、アヒルのくちばし色をした英国グレンソンの靴だったのです。母にその日『これ買っちゃった』と報告しましたよ!」と笑う。製靴を学んだあと、いったんコンサルタントとして他の企業に携わったが、40年近い靴への情熱は捨てがたく、自身のブランドを立ち上げた。
化学的手法を用いない伝統的革なめし手法をアピールするロー・ホワイト。彼のスニーカーは日本の通販サイトでもたびたび取り上げられるまでになったが、今もベースは故郷ピストイアの大聖堂横にある、古い館の中だ。Lo. Whiteとは彼の息子ロレンツォLorenzoと、娘の名前ビアンカBiancaがイタリア語で「白」を示すことによる造語である。家族を大切にするこの国の人らしいネーミングではないか。
かつてレスラーだったマエストロ
最後は「パントフォラドーロ(Pantofola d’Oro)」である。本拠地は古くから靴職人によって栄えたマルケ州。その中にある歴史都市アスコリ・ピチェーノだ。ブランド創始者である“ミミ”ことエミディオ・ラザリーニは1915年、19世紀末から靴工房を営んでいた家族のもとに生まれた。
1940年代、若きエミディオは日々の仕事が終わるとレスリングに没頭していた。今回の会場ブースに、試合会場裏を思わせるロッカーが運び込まれている理由がわかった。
しかし当時のレスリングシューズは、滑りやすく、一体感とはほど遠い不快なものだった。彼は祖父や父から継承した技術を駆使して自作を決意。そうして完成したレスリングシューズは自分用にとどまらず、他のレスリング選手からも山のように注文が入った。
戦後もレスラーとして戦う傍らで、地元サッカー選手の靴を修理。その靴は見違えるように履きやすくなったという。やがてエミディオ自身が作るサッカーシューズも評判となっていった。1959年に試着した英国ウェールズ出身のサッカー選手、ジョン・チャールズは、「これは靴ではない。金のスリッパ(Pantofola d’Oro)だ!」と、その軽快な履き心地に感嘆した。これが今日まで続くブランド名の由来である。
ただし90年代はヴァルスポルト同様、消費者の嗜好の変化と外資系ブランドを前に、苦難の時期を経験する。数年前から、英国人投資家キム・ウィリアムズ氏や米国系投資ファンドの支援を受けて、ブランド復興を模索中だ。
ピッティのパントフォラドーロ・ブースでは、ス・ミズーラ(注文製作)によるスニーカーのデモンストレーションが行われていた。長年の技と、コンピューターを駆使した多彩な素材/カラーコンビネーションが自慢だ。
採寸するのは熟練職人のファビオ氏である。「1955年生まれの私が子ども時代、パントフォラ・ドーロはサッカー仲間でひとりしか履いていませんでした。高価だったのです。同時に、サッカーが上手くなければ履いていて恥ずかしい雰囲気がありましたね」と回想する。その憧れのブランドで今、ファビオさんはスポーツシューズ作りに携わっている。
従来十分とは言えなかった経営基盤を、海外を含むインヴェスターたちの支援によって固め、再出発を志すヴァルスポルトとパントフォラドーロ。情熱をもとに理想のスニーカー作りに挑むロー・ホワイト。いずれも国際的ポピュラーブランドとの差異を、クオリティとオリジナリティで訴求できるかを模索している。
いっぽうでカスタマーにとってのイタリア製ハイエンド・スニーカーは、職人の物語や思いとともに履くことで、喜びが何倍にも増幅される一品なのである。