長年にわたりミラノを拠点にしているビジネスと文化のプランナー、安西洋之氏。ビジネスや商品のローカリゼーション、デザインマネジメント領域を得意としている氏が考える、デザインの「イタリアらしさ」とは。カラーをキーワードに考察します。
幼少期からイタリアで叩き込まれるルール
かつて友人から聞いた話だ。彼女はデザイナーで英国ファッションがお気に入り。その彼女が英国からミラノの空港に降り立った。服も靴も黒、靴下だけがピンクといういで立ちだ。そこで友人は空港の女性スタッフに注意を受けた。
「黒づくめの服にピンクの靴下はダメ」
人指し指を横に振って注意をしたのは税関の職員だ。こともあろうことにデザイナーにファッションの色について注意する? 友人はいきり立った。ブリティッシュテイストなんだ! とも。
色の組み合わせに対してルールとも呼ぶべきイタリアの教育の徹底ぶりを物語る一例である。靴下の色はズボンではなく靴の色に合わせる、ベルトと靴の色を合わせる、こういうことを子どもは小さい時から親より叩き込まれる。そのおかげで街を歩く人たちの装いで色使いがあまりに頓珍漢なことは少ない。バランスがとれている。
これが「イタリアの人はおしゃれ」と評されるひとつの背景である。一方、「イタリアの人は色に挑戦が足りない」と批判される理由である。冒頭の税関の職員に対するデザイナーのコメントだ。
インテリアのショールームを巡っていると、華やかな色が目を楽しませてくれる。装いについても唸(うな)るほどの上手さが先にたつ。奇抜ということではない。
ただ、カラーはコンビネーションもさることながら、カラーそのものにも微妙に華やいだムードがある。カラーを選ぶ消費者の目もさることながら、ものをつくるデザイナーや企業の商品力の結果でもある。
とにもかくにも、かようにカラーに対して煩(うるさ)い。これは否定しがたいイタリアにある文化的特徴である。「煩い」と書いたが、上述した文脈にみるような審美性、すなわち「美しい」「かっこいい」との見た目のレベルだけではない。カラーそのものに対する捉え方が違うのである。イタリアだけを取り上げても分かりにくいだろうから、他の国との比較で語ってみよう。
今年の5月から7月にかけて、ミラノの文化複合施設「10 コルソ・コモ(10 Corso Como)」でファションデザイナー・山本耀司のイタリア初となる展覧会「Yohji Yamamoto. Letter to the Future」が開催された。会場の壁に彼自身の言葉がいくつか示されている。その一つに、自分は身体を装った生地の動きにしか関心がないからカラーには凝らない、というような内容のフレーズがある。実際、展示されている作品は白、黒、赤と限定されたカラーしか使っていない。
服とはシルエットがすべてであり、カラーのような装飾的な要素を付け加えたくない―このような意図だろうか。ぼくは彼のことを詳しく追っていないので理解不足があるかもしれないが、ミニマルなデザインを目指す人ならこのような表現をするだろう。
カラーは、デザインコンセプトたり得るか?
かなり前だが、インドネシアのインテリアデザイナーが「MUJIがカラフルならもっと売れるだろう」と言っていた。MUJIはカラフルにしないところを強調したいのだろうが、インドネシアのかのデザイナーにとってはそれが足を引っ張ると主張するのだ。ぼくの経験では、日本の人はこのインドネシア人のエピソードを一笑に付す傾向にある。MUJIがもつミニマリズムの哲学が分かっていない、と。
実は、カラーの捉え方そのものをテーマにしないと踏み込めない話である。シンプルにいえば、カラーはコンセプトの外にある装飾なのか、カラーはデザインコンセプトのなかの一部なのか、という違いである。
Yohji YamamotoやMUJIは前者の立場をとっていることになる。誤解を恐れずに極端な言い方を許してもらえれば、「カラーなんか……」とでも言いたげなニュアンスが時に窺える。コンセプトは輪郭に重きをおくのである。他方、インドネシアのデザイナーの考え方は後者であり、イタリアのデザイナーたちも一般の人たちも、どちらかといえば後者を支持することが多い。表現者の心持ちや考え方がモノトーンであるはずがない、カラフルに決まっているじゃないか、と。
カラフルは華があり、気持ちが明るくなる。それなのに、好き好んでわざわざ色の乏しい空間をどうして選ぶのか――寂しいじゃないかとイタリアの人は思うのだ。
今春のミラノデザインウィーク中、ある家具メーカーの展示会場に流れていた動画で「カラフルこそが人生だ。ミニマリズムなんて嫌いだ」とデザイナーが話していた。彼はブラジル人だ。モノトーンはストイックであり、人の感性にとって不自然であるとまで思う。「色なんて」ではなく「色こそ」である。
言うまでもなく、日本の人もカラーが嫌いなわけではない。祭りではさまざまな色が舞い、花火も煌(きら)びやかだ。藍染に惹(ひ)かれ、和装にある多色にも魅了される。それにも関わらず、どこか色は表面的であると言いたい心情が芽生える人が、やや多そうな印象がある。
そしてイタリアに来ると「イタリアのカラーに惹かれる」と嬉々として語る。しかし、イタリアのカラーは単なる装飾ではなく、コンセプトを構成する大切な要素であると気づくには少々時間を要することが多い。でも、このことが分かると、イタリアにある風景がまるっきり違ったものに見えてくる。